大白蓮華2010年 9月号 巻頭言

行学楽しく 不滅の城を

創価学会名誉会長  池田 大作

 学びゆく
  信行 強き
     君なれば
   幸と福とは
     三世の果てまで

 「いろいろな難問に遭遇することに、哲学は私を幸福にしてくれました」
 目と耳と口の不自由にも負けないで、気高き社会貢献の歴史を残した、アメリカの女性ヘレン・ケラーの述懐である。

 確かな哲学を持った人生は強い。哲学なき人は自由なようでありながら、羅針盤のない航海のごとく迷走し、漂流せざるを得ないのだ。いかなる権勢や名声も、生老病死の荒波の前には、なすすべもない。

 「法華経は仏説(ぶっせつ)なり仏智(ぶっち)なり一字一点も是を深く信ずれば我が身(み)即仏(そくほとけ)となる(中略)毒薬変(どくやくへん)じて薬となり衆生(しゅじょう)変(へん)じて仏となる故(ゆえ)に妙法と申す」(御書1437ページ)。これは、日蓮大聖人が、最愛の我が子を亡くした門下の新池殿へ綴られた、励ましの御消息の一節である。

 御書には、「希望の中の希望」が説き明かされている。すなわち、五濁悪世(ごじょくあくせ)の末法にあって、万人が必ず、仏性という尊極の生命を輝かせていける大道が、あますところなく示されているといってよい。まさしく、究極の幸福学の経典こそ、御書なのである。

 御書には、空虚(くうきょ)な抽象論(ちゅうしょうろん)など、一つもない。一文一句なりとも、大聖人ご自身が、三障四魔と戦われ、三類の強敵を打ち破り、流罪・死罪の大難を勝ち越えられて、実証なされた真実の御金言である。

 「わざはひも転(てん)じて幸(さおわい)となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事(なにごと)か成就(じょうじゅ)せざるべき」(御書1124ページ)
 一通一通の御消息文からは、千差万別の悩みと戦う一人一人への溢れんばかりの大慈大悲が拝されてならない。

 戦時中の投獄で当局に押収された、戸田城聖先生の御書がある。そこには、伊豆流罪中に認められた「四恩抄」に線が引かれている。
 「法華経の故(ゆえ)にかかる身となりて候へば行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に法華経を読み行(ぎょう)ずるにてこそ候へ、人間に生(せい)を受けて是(こ)れ程(ほど)の悦(よろこ)びは何事(なにごと)か候べき」(御書937ページ)

 大聖人の師子吼を、師と共に寸分違わず身読していく——ここに、我ら創価の師弟の無上の悦びがあり、誇りがある。軍部の弾圧を恐れて御書の要文を削除し、破邪顕正(はじゃけんせい)の精神を忘れ去った邪宗門とは天地雲泥の違いなのだ。 日蓮仏法の正統の命脈は、広宣流布へ邁進する学会の「信行学」の実践にこそ、脈々と流れ通っている。

 恩師は叫ばれた。「御書は、宿命転換と永遠の所願満足の軌道を教えられている。あらゆる魔に勝つための要諦が示されている。ゆえに信心だけは、命懸けで実践して侮いはないのだよ」
 この戦う教学の真髄を、師のもとで青年部は心肝に染め抜いてきた。
 二十三歳の私は、戸田先生の第二代会長就任の準備に奔走しながら、夜、仕事を終えた若き友たちと「開目抄」を研鎖した。私は日記に記した。
 「難解なれど、大聖人の御確信、胸に響く。乱世に、この貧しき家で、貧しき青年等が、大聖人の哲学を学びし姿、実に尊き哉」

 創価学会は、文字通り「学ぶ会」である。世界第一の生命尊厳の極理を学び、立正安国の平和・文化・教育の大哲学を行じゆくのだ。

 埼玉県の川越地区の御書講義に勇んで通ったことも、懐かしい。
 当時、御書講義の修了証書を私がお渡しした、けなげな婦人部の方が振り返っておられた。「よくぞ妙法に出会えたものぞと、感激でいっぱいになり、夢中で折伏に走ってきたのです。この人生それ自体が、最高にして最大の功徳でなくしてなんでしょうか!」と。
 あまりにも尊き母たちによって、広布の不滅の城が築かれてきたのだ。

 今や、真剣な行学錬磨のうねりが全世界に広がっている。日本も、この秋、伝統の教学部任用試験が行われる。御書を開けば、大聖人の仏の肉声に触れられる。共々に、みずみずしい求道心を漲らせながら、「行学の二道」を楽しく勇猛精進(ゆうもうしょうじん)していこうではないか!
 「行為の偉大さ、思想の偉大さ、魂の偉大さゆえに人は偉大になる」——インドネシアの信念の文豪プラムディヤの言葉である。

 わが生命
   三世の宮殿
      知るゆえに
    我らは恐れじ
       永遠の王者と