2015-03-01から1ヶ月間の記事一覧
各各(おのおの)なにをかなげ(歎)かせ給うべき、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)にあらずとも・まい(舞)をも・まいぬべし、舎利弗(しゃりほつ)にあらねども・立つてをど(踊)りぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をど(踊)りてこそい(出)…
法華経の行者として・かかる大難にあひ候(そうろう)は・くやしくおもひ候(そうら)はず、いかほど生(しょう)をうけ死にあひ候とも是(これ)ほどの果報の生死(しょうじ)は候はじ(四条金吾殿御返事、1116㌻) 〈通解〉 法華経の行者として、このよう…
法華涅槃(ねはん)を信ずる行者は余処(よそ)に求む可(べ)きに非(あら)ず此(こ)の経を信ずる人の所在の処(ところ)は即(すなわ)ち浄土なり(守護国家論、72㌻) 〈通解〉 法華経・涅槃経を信じる行者は、他の所に浄土(清浄な国土)を求めるべき…
山本伸一が、記念勤行会の会場となった大広間に姿を現すと、大きな拍手がわき起こった。午後四時前、勤行会が始まった。 伸一は、参加者と厳粛に、勤行・唱題したあと、「四条金吾殿御返事」を拝した。 そして、冒頭の「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるよ…
山本伸一は、岐阜県多治見市の東濃文化会館に向かう途中、名古屋市守山区内にある、喫茶店に立ち寄った。 店を切り盛りする学会員と、その家族、そして、地元の支部長らを励ますためであった。 〝たとえ短時間でも、できることは全力を尽くして、すべてやろ…
山本伸一は、東濃文化会館に向かうため、車に乗ると、すぐに、「この道の歌」の歌詞を取り出し、同乗した峯子に言った。 「まだ、推敲したいんだよ」 車が走りだすと、歌を録音したカセットテープをかけてもらった。そして、しばらく考え込んだあと、顔を上…
山本伸一は、翌七月二十八日午後一時半、東濃に出発する直前、中部文化会館で、創価大学、東京の創価学園、関西の創価女子学園に学ぶ学生・高等部、卒業生の男女青年部の代表と、記念のカメラに納まった。 夏季休暇を利用し、帰省していた人たちなどであった…
山本伸一は、強い確信を込めて訴えた。 「日蓮大聖人は、『如説修行』すなわち、仏の説の如く修行せよと叫ばれた。 私たちは現代にあって、末法の御本仏であられる大聖人の仰せ通りに広宣流布を進めてきました。 苦悩に打ちひしがれていた私たちが、御本尊に…
山本伸一は、諄々と語っていった。 「日蓮大聖人は『法妙なるが故に人貴し』(御書一五七八p)という原理のうえから、『一閻浮提第一の聖人』(同九七四p)であることは明らかです。 しかし、その御境地をそのまま語り、御自身を宣揚すればどうなるか。 そ…
「中部の日」記念幹部会は、山本伸一の司会・進行によって、笑いと歓喜の集いとなった。彼は、言葉をついだ。 「次は、参加者の皆さんが、男性陣、女性陣に分かれて、交互に歌ってはどうですか」 この提案を受けて、男性の参加者が立って、「この道の歌」を…
この道――それは、三カ月前の一九七八年(昭和五十三年)四月、この中部文化会館で開かれた本部幹部会で、会長の山本伸一が語った言葉であった。 あの日、伸一は師子吼した。 「われわれは、ひとたび決めたこの道――すなわち『信心の道』『一生成仏の道』『広…
中部長の大田和介の話を受けて、中部本部長の田山豊隆が登壇し、「中部の歌」制作の経過を語っていった。 「先生のお話を受けて、私たちは原案を作り、手直ししていただこうと、歌詞を提出いたしました。 しかし、その歌の完成度は極めて低く、ことごとく先…
七月二十七日夜、中部文化会館での記念幹部会には、中部の支部長・婦人部長らが、中部の歌「この道の歌」の発表に胸を躍らせ、頬を紅潮させながら喜々として集って来た。 場内前方には、赤、ピンク、黄などの、色とりどりのグラジオラスの花が飾られ、晴れ…
中部文化会館での「中部の日」記念幹部会の前、山本伸一は東濃圏の中心者と会った。 この圏では、宗門の問題だけでなく、怨嫉問題などもあり、皆が喜んで団結しているとは、言いかねる状態であった。 伸一は、同席した中部本部長の田山豊隆に視線を向けた。 …
「中部の歌」に山本伸一は筆を加えていった。 「よい歌を!」「永遠に歌い継がれる歌を!」との思いで加筆していくうちに、全く新しい歌詞になってしまった。それを、 さらに推敲し、作曲も東京で音楽の教師をしている壮年に依頼することにした。 そして、完…
行こう! 友のもとへ。 今日も、励ましの対話を交わそう! 語った分だけ、希望の春風を送ることができる。幸福の種子を植えることができる。 四国指導を終えて岡山文化会館に戻った山本伸一は、翌七月二十七日午後、岡山から新幹線で名古屋へ向かった。 この…
妙とは蘇生の羲なり 東日本大震災から4年――。 被災地にあって、わが創価の若人たちは、不屈の魂で戦い抜いてくれた。 それは、最大の試練に挑んで、「人間の力はかくも偉大なり」と、世界に示してきた誇り高き光跡である。 私は、一人一人の手を取り、高く…
人知れぬところで努力を 人間として光っている人。その人たちに共通する点がある。それは、人知れぬ努力を重ねていることだ。また、苦労をいとわず、人のために尽くしていることだ。 創価の尊き同志は、目に見えないところで、友の幸福を祈り、どんなに悪口…
「喜悦はかりなし」の信心の炎を! 創価学会名誉会長 池田大作 モンゴルの大詩人であり、共に「友情の大草原」を広げてきた、ツェデブ博士は高らかに謳(うた)った。 「心に火を持つことほど、爽快にして健康なものはない/胸に炎を持つことほど、顔(かん…
私の青春時代は、病気との闘いであった。それだけに、闘病する青年のことは、わが身のことと思って、強盛に題目を送っている。 日蓮大聖人は、重い病に罹(かか)った南条時光を「(信心強盛であるあなたが)もはや仏に成ることは間違いないと見えたからこそ…
御書に、「今の乱れた世にあっては、これということがなくても、仏道を求める心が起こるであろう」(1083ページ通解)と仰せである。 混迷(こんめい)を深め、不安が高まる社会にあって、心ある人々は確かな拠(よ)り所を求めている。 時代の闇を(やみ)…
希望と目標と強い祈りで かけがえのない青春の一日一日である。 悔いなき歴史を創りゆくには、希望に燃え、具体的な目標を掲げて、強い祈りを貫くことだ。そして祈りの通り、行動することである。 若いのだから、思い切って大胆に動こう! 行動なくして結果…
どこまでも「共に」進もう! アメリカの教育哲学者 デューイ博士 私たちには、先人から受け継いだ遺産を、よりよく、大きくする責任がある。そして、後に続く人たちが、豊かに分かち合えるようにするのだ ──万物が躍動する春3月が到来しました。未来部員も…
山本伸一は、さらに、長井夫妻に語った。 「四国の歌もできたので、今度は、島の先駆として、小豆島の歌を作ってはどうでしょうか。私も応援します」 それから四国長の久米川誠太郎に言った。 「私は今年、もう一度、四国に来ます。四国が大発展するための、…
日蓮大聖人は、仰せである。 「弥菩提心強盛にして申せば・いよいよ大難かさなる事・大風に大波の起るがごとし」(御書三二二p) 信心は、難との戦いである。 山本伸一の声は、力強さを増していった。 「広宣流布をしようと思えば、反対され、何かと苦労も…
仏法で説く因果の理法は、大宇宙を貫く生命の根本法則であり、誰人も、そこから逃れることはできない。 しかし、ともすれば目先の現象に心を奪われ、それに気づかないところに、人間の不幸の要因がある。 山本伸一は、草創期の先輩たちの姿を通して、話を進…
万歳三唱のあと、山本伸一の導師で厳粛に勤行が行われた。 彼は、小豆島の発展と広宣流布を願うとともに、「わが同志に、幸よ、薫れ! 無量の功徳よ、降り注げ!」と、懸命に祈った。 皆の題目に唱和するかのように、外は蝉時雨に包まれていた。 勤行が終わ…
小豆島会館の開館十周年を記念する勤行会では、四国の方面幹部、婦人部の全 国幹部、副会長らが次々とあいさつに立った。 登壇する幹部の話のたびに、朗らかな笑いが弾けた。 たとえば、婦人部の幹部が、「私は、初めての小豆島訪問です。 『人よし、自然よ…
道畑ハナノから始まった小豆島の広宣流布は、着実に伸展していった。 山本伸一の二度目の訪問となる、この一九七八年(昭和五十三年)七月、小豆島の組織は、一本部五支部へと 大きな発展を遂げていたのである。 伸一は、六七年(同四十二年)九月、小豆島を…