2015-09-01から1ヶ月間の記事一覧
一九七八年(昭和五十三年)十月七日、山本伸一は、離島の婦人部の代表らと懇談したあと、第一回離島本部総会の会場である創価文化会館五階の広宣会館へ向かった。 会場は、全国百二十の島々から集った代表で埋まり、求道の熱気に包まれていた。 皆、固唾を…
山本伸一は、「龍郷支部歌」をもう一度聴いた。 それから、「では、今度は、ぼくの作った歌を聴いてよ」と言って、東京、関西などの方面歌のテープをかけた。 その音楽の流れるなか、伸一は奄美の同志に贈るために、激励の色紙を書いた。 「友よ起て 此の世…
カセットデッキから、「龍郷支部歌」が流れた。勇壮で力強い調べであった。 臥龍(がりょう)が時を待って、天空高く昇りゆく姿に、同志の心意気を託した歌となっていた。 山本伸一は、調べに合わせて、拳を振りながら、歌を聴いていた。 聴き終わると、彼は…
山本伸一は、八丈島のメンバーに語った。 「皆さんご自身が、本来、仏であり、皆さんは、自分の今いる場所を常寂光土としていくために出現したんです。 どうか、力を合わせ、八丈島を広布模範の島にしてください。広布第二章の大潮流を八丈島から起こしてく…
秋の彼岸に当たり、私も、亡くなられたご家族の方々、そして広宣流布に連なる全ての方々の先祖代々の追善回向を懇(ねんご)ろに行い、三世永遠にわたる安穏と福徳を、心から祈念させていただいている。 題目の光は全宇宙に届く。慈愛と励ましの祈りは、友の…
はつらつと広布に走りゆく男女学生部の英姿(えいし)がまぶしい。 あす31日は「学生部の日」。代表に御義口伝の講義を開始した日だ。そして9月9日は「女子学生部の日」である。 地球全体が皆さんの舞台だ。未来の全てが皆さんの時代だ。目を世界に向け…
創立85周年の秋へ、広布と人生の大いなる飛躍のために、いよいよの出発である。 有名な御聖訓に仰せである。「軍(いくさ)には大将軍を魂とす大将軍をく(臆)しぬれば歩兵(つわもの)臆病なり」(御書1219㌻、「乙御前御消息」) リーダー自身が生まれ…
八丈島は、伊豆七島の一つで、東京の南方海上約二百九十キロに位置している。 学会の大田区の組織に伊豆七島本部があったことから、八丈島の同志は、大田区の会館に立ち寄ることが多かった。 この日、大森文化会館に来たのは、草創の八丈支部の支部婦人部長…
「初心」を貫く人は勝利者なり 創価学会名誉会長 池田大作 日蓮大聖人は、「地涌千界(じゆせんがい)の菩薩・虚空(こくう)に星の如(ごと)く列(つらな)り給(たま)いて」(1350ページ)と仰せになられた。 今まさに、きら星の如く、世界中で、新入会の…
私は、スポーツが大好きです。 私が子どものころは、戦争で、だんだんスポーツの試合や大会が行われなくなった時代でした。スポーツがさかんなことは、平和の象徴です。 ですから、未来部のみなさんが思うぞんぶん、スポーツに汗を流している様子を聞くと、…
みんな元気かな? 夏休みを楽しくすごしていますか? みなさんの健康と無事故を、私は一生けんめい祈っています。 車で出かける人もいるでしょう。そこで「クイズ」です。高速道路で、となりを走っている車と同じスピードで、みなさんの乗っている車が走ると…
目標を明確にして一点突破 「広宣流布」は、人類史の希望である。 それは、確固たる信念の人材を幾重(いくえ)にも育て、あらゆる活動の根幹に、生命尊厳と人間主義の哲学を浸透させゆく運動だ。 壮大な遠征であるからこそ、一つ一つ、戦いのホシを明確にし…
一九七八年(昭和五十三年)一月、「広布第二章」の支部制が発足し、離島にあっても清新の息吹で新たな前進が開始された。 山本伸一は、各島々の飛躍のために、ますます力を尽くそうと心に決め、島にあって広宣流布を支え、推進してくれた同志を、讃え、励ま…
奄美の同志は、さまざまな圧迫に押しつぶされそうになりながらも、自らを鼓舞し、人びとの幸福と島の繁栄を願って広宣流布に生き抜いてきた。 山本伸一は、その姿に仏を見る思いがしていた。 その生き方のなかにこそ、現代における不軽菩薩の実践もあると、…
各島々では、地域の繁栄のために、さまざまな催しも行われた。 長崎県・五島列島の福江島をはじめ、対馬や壱岐、鹿児島県の沖永良部島などでは、学会員が中心となって、島ぐるみのフェスティバル等が開催されていった。メンバーは、島に受け継がれてきた郷土…
小笠原の同志の活躍は、東京に戻った離島本部の幹部から、詳細に、会長の山本伸一に伝えられた。 伸一は、その様子を深く心に刻み、小笠原をはじめ、離島で奮闘する同志のために、ひたすら題目を送り続けた。 大ブロック結成の翌一九七五年(昭和五十年)夏…
やがて母島への本格的な帰還が始まり、旧島民や新しい人たちが島に移住してきた。 そのなかに学会員もいた。 勝田喜郎は、“この島で広宣流布の大きな波を起こしていくには、皆が集う会場が必要だ”と考えた。 本土から大工を呼んで、家を新築することにした。…
一九六八年(昭和四十三年)六月、小笠原諸島は日本に返還される。 しかし、翌年の春、勝田喜郎の父親は他界した。 勝田は、大阪で会社勤めをしていたが、〝自分だけでも母島に帰って農業をし、父との約束を果たすべきではないか〟との思いが、日を追うごと…
末代の凡夫出生(しゅっしょう)して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり (観心本尊抄、241㌻) 〈通解〉 末代の凡夫が人間と生まれてきて、法華経を信ずるのは、人界に、もともと仏界を具足しているからである。 ~同志への指針~ 誰人(たれびと…
四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり、我等が生老病死に南無妙法蓮華経と唱え奉るは併(しかしなが)ら四徳の香(か)を吹くなり (御義口伝、740㌻) 〈通解〉 (宝塔の)四つの面とは生老病死のことである。この四つの相をもって…
小笠原へ旧島民が帰還してしばらくは、本土と父島を結ぶ船便は、月に一便であった。 当然、生活物資が届くのも月に一度である。 島に、住民が移って来るたびに、佐々本卓也や浅池隆夫は、学会員がいないかどうか聞いて回った。 父島には、旧島民のほかに、新…
離島本部からの報告では、小笠原諸島には、三十世帯を超えるメンバーがいるとのことであった。 山本伸一は、首脳幹部を通して、小笠原を訪問する離島本部の幹部に伝言した。 「この機会に、小笠原に大ブロックを結成してはどうでしょうか。学会本部ともよく…
離島本部の幹部は、四月には日本海に浮かぶ島のなかで最北に位置する北海道の礼文島や、利尻島にも足を運んだ。両島で映画「人間革命」の上映を行った。利尻島では百五十人を、礼文島では三百人を超える人びとが集って鑑賞した。 その折、「聖教新聞」の創刊…
離島本部の幹部らにとって、各島々の訪問は、すべてが驚きであり、感動であった。 西表島では、訪問初日、島の東部の大原大ブロックで映写会などを行った。 山本伸一の沖縄訪問の記録映画が上映された。石垣島で行われた「八重山祭」での「巻き踊り」のシー…
離島本部は、当初、本部長と二人の副本部長でスタートし、次いで九州と沖縄に方面離島長が誕生した。 彼らが、離島の実態を調べて驚いたのは、約四百ある有人の島の多くに学会員がいるということであった。といっても、一世帯から数世帯しか会員がいない島も…
離島本部の第一回代表者会議では、奄美大島、喜界島、屋久島に「地域長」が設けられたことが発表され、その人事も紹介された。 各島の地域長は、その島ならではの特色を生かしながら、それぞれの島の発展、広宣流布の責任を担う中心者である。 山本伸一は、…
仏法の世界で偉いのは誰か──御書に仰せの通り、迫害、弾圧と戦いながら、懸命に弘教に励み、人材を育て、地域に信頼を広げながら、広宣流布の道を黙々と切り開いてきた人である。 人びとの幸せのために汗を流し、同苦し、共に涙しながら、祈り、行動してきた…
最高峰の思想を学べ どうすれば、人は幸福になれるのか。世界を平和にできるのか――これが、人生の根本命題であり、人類の永遠の課題である。 仏法には、その究極の指標が示されている。ゆえに青年ならば、求めて研鑽(けんさん)すべきである。 戸田城聖先生…
創価学会の組織は、なんのためにあるのか─ ─人びとに真実の仏法を弘め、教え、励まし、崩れざる幸福境涯にいたるよう手を差し伸べ、切磋琢磨し合っていくためにある。 したがって、最も苦しく、大変ななかで信心に励んでいる人ほど、最も力を込めて激励し、…
伊豆大島の同志は、目覚ましい勢いで、弘教を加速させていった。 大火から八カ月後の一九六五年(昭和四十年)九月には、待望の伊豆大島会館の起工式が行われた。 大火前、島の学会世帯は五百世帯ほどであった。 しかし、この年の十二月には八百数十世帯とな…