小説「新・人間革命」 勝利島 46 2015年9月12日

小笠原へ旧島民が帰還してしばらくは、本土と父島を結ぶ船便は、月に一便であった。
当然、生活物資が届くのも月に一度である。
島に、住民が移って来るたびに、佐々本卓也や浅池隆夫は、学会員がいないかどうか聞いて回った。
父島には、旧島民のほかに、新しい住民も増えていった。
また、アメリカは、終戦の翌年には欧米系の旧住民の帰還を認めており、欧米系の人たちが暮らしていた。
佐々本や浅池は、その人たちと融和を図りながら、島づくりに励んできた。
彼らが父島に戻って二年がたった一九七〇年(昭和四十五年)ごろから、座談会も開かれるようになった。
島での生活は、断水や停電も日常茶飯事であったが、そのなかで同志は、離島広布の先駆になろうと誓い合った。
漁業調査船の船長である浅池は、海流やプランクトンの分布、魚群の種類の調査等のほか、父島と母島の物資の輸送や急病人への対応、海上遭難者の救出などにも奮闘した。
地域への貢献を通して、信頼を勝ち取ることが、そのまま広宣流布の前進となった。
「信心即生活」である。ゆえに学会員一人ひとりの生き方のなかに、仏法が表れる。
彼は、船長を五年ほど務めたあと、小笠原支庁の職員となった。
学会員のなかには、日本最南端の漁業無線局の局長もおり、多彩な人材がいた。
島には、次第に観光客も増えていった。
それにともない、ゴミが無造作に捨てられるなど、自然環境の破壊も進み始めた。
島の未来を憂慮した学会員の有志が中心となって、「小笠原の自然を守る会」を結成。
ゴミ拾いや自然保護のための運動を開始した。
また、母島の広宣流布を担ってきた一人に勝田喜郎がいた。
母島生まれの彼は、二歳の時、家族と共に強制疎開の船に乗る。
移り住んだ八丈島で一家は入会。
彼の父親は、母島に帰ることを夢見て生きてきた。
喜郎は父と、「小笠原が返還されたら一緒に母島へ帰り、農業をしよう」と約束していた。