2012-01-01から1ヶ月間の記事一覧
大白蓮華 2012年(平成24年)1月号 巻頭言 共に集い! 共に勝つ! 創価学会名誉会長 池田大作 君の胸 われの胸にも 黄金の 旭日かがやき 共戦楽しや 「生命は、日々たえまなく生まれ変わる。これを知れば、心がはずむではないか」──非暴力の英雄マハト…
大白蓮華 2011年12月号 巻頭言 題目は生命の凱歌なり 創価学会名誉会長 池田大作 負けるなよ 断じて築けや 幸福城 広布の長者に 福智は光れり 人間の人間たる証(あかし)とは、何か。 タイの思想家ワーターカーンは、「それは、人生の苦難と戦うことで…
大白蓮華 2011年 11月号 巻頭言 新しき地涌の宝友と朗らかに! 創価学会名誉会長 池田大作 わが人生 広宣流布に 立ちにけり 悔いなく 無上の 三世の喜び 「哲学は人を晴れやかにし、肉体がどんな状態にあっても人を強くし、かつ喜ばしく」するとは、古代ロー…
千日尼は、日蓮大聖人が佐渡流罪中に、夫の阿仏房と共に帰依したとされている。 その千日尼に対して、大聖人は、「亡くなった阿仏房の聖霊は、法華経の明鏡に照らして見るならば、霊鷲山にある多宝仏の宝塔の中で、東向きに座っておられると、日蓮は見ている…
五月二十二日──山本伸一の山口訪問の最終日である。彼は、この日の午後四時に、北九州へ向かうことになっていた。 この日の午後、山口文化会館で、「山口広布功労者追善法要」が行われた。 伸一は、導師を務め、広宣流布の開拓者の方々に、懇ろに追善回向の…
山本伸一は、集った人たちに、視線を巡らしながら語った。 「このたび、山口市と徳山市に文化会館ができましたが、防府は、あくまでも山口創価学会の原点の地です。山口広布の原動力となる地であります」 伸一が第三代会長に就任した一九六〇年(昭和三十五…
山本伸一の乗った車は、徳山から山口文化会館へ向かった。三、四十分したころ、同乗していた妻の峯子が言った。 「防府の人たちが、会館に集まっていらっしゃるそうですよ」 峯子は、中国婦人部長の柴野満枝から、そう聞いていたのである。 車を運転してくれ…
山本伸一は、中国方面の男子部幹部には、こう語った。 「どこまでも師匠に、また、学会本部に呼吸を合わせ、その指導通りに進んでいくことが大事です。学会の正道を歩み、自分を鍛え抜いて、大きく成長していくんです。 それを、自分勝手に、やりやすいよう…
山本伸一が、心の強さを強調したのは、日蓮仏法は、いわゆる『おすがり信仰』ではなく、『人間革命の宗教』であることを、訴えておきたかったからである。 最後に、彼は、「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(御書一三三八p)との御文を拝した…
山本伸一の指導は、信心の基本姿勢に及んでいった。 「日蓮大聖人は、人間の不幸の最大の原因は、煎じ詰めるならば、正法誹謗、すなわち宇宙の根本法である南無妙法蓮華経への誹謗であると、明快に結論されている。 同時に、幸福への直道は、南無妙法蓮華経…
山村年子は、『信心は素直に』との山本伸一の指導を深く胸に刻み、自分を見つめ、懸命に学会活動に取り組んだ。 そして、一九六四年(昭和三十九年)八月、東徳山支部が結成されると、彼女は支部の婦人部長になった。 『素直な信心』によって、山村の負けん…
信心の現証を痛感した山村年子は、一途に学会活動に励むようになった。ある時、大阪に住む学会員の知人から、山本伸一が関西を訪問することを聞いた。 山村は、「ぜひ、室長にお会いして、徳山の座談会での失礼をお詫びしたい。また、入会後、病も乗り越えた…
山村年子は、山本伸一を一瞥し、鼻先で笑うようにして尋ねた。 「では、お聞きしますけど、御本尊というのは紙ですよね。紙に字が書いてあるだけのものに、なぜ、そんなに力があるんですか」 伸一は、真心を込めて語っていった。 「紙でも、大きな力をもって…
山本伸一が記念勤行会の会場に入ると、皆が大きな拍手で彼を迎えた。 最前列に、メガネの奥の目を潤ませ、盛んに拍手を送る、着物姿の年配の婦人がいた。 山口開拓指導で山本伸一から仏法の話を聞き、ほどなくして入会し、草創期の徳山で支部婦人部長として…
入会を決意した大山ツネは、息子の寿郎にも入会を勧め、母子で共に信心を始めた。 寿郎は、それから一週間ほどして、鉄鋼会社に、就職が内定した。これが、大山親子にとって、初信の功徳となったのである。 山本伸一が二度目に「ちとせ旅館」を訪れた時、寿…
山本伸一は、女将の大山ツネに尋ねた。 「子どもさんは、お一人ですか」 「はい。一人息子です。夫がおりませんもので、私が一人で育ててきました」 「ご苦労されたんですね。そのご苦労が報われ、努力した人が、必ず、幸せになれる道を教えているのが仏法な…
山本伸一が、山口開拓指導で徳山入りし、「ちとせ旅館」を訪れたのは、一九五六年(昭和三十一年)十一月のことであった。 その夜、この旅館で座談会が行われることになっていた。 夕刻、女将の大山ツネが厨房にいると、背広姿の、きちんとした身なりの青年…
五月二十一日、山本伸一は、朝から、揮毫の筆を執り続けていた。あの人も、この人も励ましておきたいと思うと、作業は、際限なく続いた。 妻の峯子は、伸一が揮毫した書籍や色紙を受け取っては、手際よく並べて、墨を乾かしていった。 この日の午後、彼は、…
山本伸一は、山口文化会館の開館記念勤行会のあと、山口大学の大学会メンバーとの懇談会に参加し、夕刻、車で外出した。 山口県の幹部から、地元の誇りでもある菜香亭を、一度、訪問してほしいと言われていたのである。 菜香亭は、明治の創業以来、百年以上…
人間は、三世にわたる生命の因果の理法に立脚して生きるならば、心の内に、おのずからモラルが確立され、善の王道を歩むことができよう。 当然、そこからは、人の不幸のうえに、自分の幸福を築こうという発想は出てこない。 今日、モラルの低下が指摘されて…
山本伸一は、話を続けた。 「戸田先生は、よく『二十年間、その道一筋に歩んだ人は信用できるな』と言われた。 二十年といえば、誕生したばかりの子どもが成人になる歳月です。信仰も、二十年間の弛まざる精進があれば、想像もできないほどの境涯になります…
五月二十日午後、晴天のもと、山口文化会館では開館記念勤行会が行われた。 勤行会で山本伸一は、二十年前の山口開拓指導に触れながら、懇談的に話を進めた。 「山口開拓指導は、戸田先生から、直接、指示を受け、私が指揮を執った戦いでした。 当時、山口県…
山本伸一たちが、山口文化会館に戻ったのは、午後八時過ぎであった。 会館に入ると、中国各県の青年職員らが、荷物整理などの作業にあたっていた。伸一は、中国女子部長の本間三津代に尋ねた。 「山口県以外の人たちが大勢来ているが、どうしてなんだい」 「…
初日の出 己が心も 初日の出 一九五三年(昭和二十八年)の元朝、山本伸一が詠んだ句である。彼は、燃えていた。 “さあ、戦い抜くぞ! いよいよ広布後継の大闘争の時代を迎えた。 戸田先生のお心を体して、慈折広宣流布大願成就への大きな流れを開き、先生に…
山本伸一は、フランシスコ・ザビエルの書簡集を読んで、世界広布の道が、いかに険路であるかを痛感した。 権勢を誇るローマ教皇庁とポルトガル国家の後ろ盾がある、宣教師のザビエルでも、海外布教の苦闘は、すさまじいものがある。 当時、創価学会は、会員…
日本での布教でザビエルは、創造主という神の概念を、いかにして伝えるかに悩んだ。 日本人信徒が、キリスト教で説く神の「デウス」を、真言宗の「大日」(大日如来)と訳したことから、ザビエルも、そう語っていった。 しかし、デウスと大日如来とでは、全…
フランシスコ・ザビエルは、山口での滞在は一カ月余りで、京の都に出発する。 時は、まさに戦国の世である。彼らの旅は、盗賊の襲撃や、冬の寒苦に苛まれながらの、過酷な道のりであった。 しかも、たどり着いた京の町は、戦乱で激しく破壊されていた。 彼ら…
フランシスコ・ザビエルは、一五〇六年に現在のスペインに生まれ、パリ大学の聖バルバラ学院に学んだ。 二十八歳の時、イグナティウス・デ・ロヨラらと、モンマルトルの聖堂で、神に生涯を捧げる誓願を立てる。 ザビエルは、このロヨラらと、修道会「イエズ…
学会の各県区において、世代交代は、大きな一つのテーマになっていた。山本伸一は、その模範となる伝統を、この山口県につくってほしかったのである。 伸一は、さらに語った。 「草創期に頑張ってこられた皆さんは、先輩たちから、厳しく叱咤激励されてきた…
山本伸一は、未来を見すえるように、楽しそうに話を続けた。 「これから、県長などの幹部にも、草創期を戦い抜かれた皆さんより、十歳も、二十歳も若い人たちが登用されていくでしょう。 さらには、三十歳下、四十歳下の人が、各組織の中心者となっていく時…