小説「新・人間革命」 共戦 39 2011年12月28日

山本伸一は、フランシスコ・ザビエルの書簡集を読んで、世界広布の道が、いかに険路であるかを痛感した。
権勢を誇るローマ教皇庁ポルトガル国家の後ろ盾がある、宣教師のザビエルでも、海外布教の苦闘は、すさまじいものがある。
当時、創価学会は、会員も数千人の時代であり、なんの後ろ盾もない。しかも、布教の担い手は、無名の庶民である会員だ。
しかし、世界広宣流布は、日蓮大聖人の絶対の御確信であり、御遺命である。
ゆえに、伸一は、人を育て、時をつくりながら、世界広布の幕開けを待ったのである。
彼は、戸田城聖のもとで共に戦い、日本国内にあって、幾千、幾万、幾十万の仏子の陣列を築き上げていくなかで、次第に、世界広布を現実のものとする、強い確信がもてるようになっていった。
殉難を恐れずに弘教に生き抜く同志の、不撓不屈の実践と決意を目の当たりにしてきたからである。
折伏に励むと、殴られたり、鎌を持って追いかけられたり、村八分にされたりすることもあった。
それでも同志は、忍耐強く対話を重ね、地域に信頼の根を張り、喜々として広宣流布を推進していったのだ。
その姿に伸一は、地涌の菩薩の出現を、深く、強く、実感してきた。
そして、「世界広布の時代を開こう」との決意は、「絶対にできる」という大確信に変わっていった。
また、彼は、一九五四年(昭和二十九年)夏、戸田の故郷・厚田村で、戸田に、こう託された。
「世界は広い。そこには苦悩にあえぐ民衆がいる。いまだ戦火に怯える子どもたちもいる。
東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」世界広布は、彼の生涯の使命となったのだ。
伸一が、「戸田大学」の卒業生として、ザビエル(スペイン語ではハビエル)の名前を冠した南米ボリビア最古の名門サン・フランシスコ・ハビエル・デ・チュキサカ大学から、名誉博士号を贈られたのは、この厚田の語らいから五十年後であった。
 
  ◇ 小説「新・人間革命」 共戦  40 2011年12月29日
 
山本伸一は、亀山公園で車を降りた。
彼は、園内を散策しながら、末法広宣流布のために、門下が死身弘法の信心を確立するよう念願された、日蓮大聖人の御胸中を思った。
法華経の目的は、一切衆生を仏にすることにある。
大聖人は、末法において、それを果たすために、建長五年(一二五三年)四月二十八日、南無妙法蓮華経という題目の大師子吼を放ち、宇宙の根源の法を示されたのである。
以来、大難と戦いながら、この妙法をもって、衆生を教化されてきた。
高僧や武士だけではなく、すべての民衆が、仏法の法理を確信し、死身弘法の信心に立たなければ、万人の成仏はない。
弘安二年(一二七九年)九月二十一日、迫害の嵐が吹き荒れていた駿河国(現在の静岡県中央部)熱原で、農民信徒二十人が、稲盗人という無実の罪を着せられ、捕らえられるという事件が起こる。
熱原の法難である。
しかし、彼らは、微動だにせず、拷問にも屈することはなかった。
強盛に信心の炎を燃え上がらせ、信徒の中心であった神四郎、弥五郎、弥六郎は、やがて、堂々たる殉教の生涯を閉じる。
皆、僧ではなく、農民である。しかも、日蓮門下となって一年ほどにすぎない。
その彼らが、一生成仏へと至る不惜身命の信心を確立したのだ。
大聖人が題目を唱え始めて二十七年、一切衆生の成仏という誓願成就の証が打ち立てられたのである。
大聖人は、「一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(御書二六五ページ)との御確信を、ますます強められたにちがいない。
「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(同八五六ページ)である。
伸一は、世界広布の新時代を思い描きながら、死身弘法の信念に立つ真の信仰者を、さらに、育て上げなければならないと思った。
彼は、同行していた幹部に言った。
「さあ、山口文化会館に戻ろう。少しでも多く、学会の宝である青年と会って、全力で励ましたいんだ。創価の心を伝えたいんだ」