2012-01-01から1年間の記事一覧
北海道幹部会で山本伸一は、皆の健康と長寿、一家の繁栄を願って、ともに勤行した。 この席上、伸一は、北海道の研鑽御書を「御義口伝」と定め、皆で学んでいってはどうかと提案。 賛同の大拍手が会場を包んだ。 さらに彼は、大ブロック組織の重要性などにつ…
山本伸一は、さらに、戸田城聖が姪に送った別の手紙を紹介した。 「『私は仏教を信じている。仏教の極意は仏の道を行ずる事だ。 仏には怨みや怒りやそねみはない。人を助ける事が仏の道だ。だからお前も上京したら仏道を行じて、仏を信じてもらいたい』 戸田…
山本伸一は、厚田での一回一回の集いに、全身全霊を注いだ。激風にも、激浪にも、微動だにせぬよう、北海道の同志に、黄金の指針を残しておきたかったのである。 伸一は、十月八日も、記念勤行会に出席した。 彼は、初めに、戸田城聖の親戚から届けられた、…
十月五日、山本伸一は予定通り、札幌に行き、諸行事を終えると、翌六日午後には、厚田の戸田記念墓地公園に向かった。 その途次、札幌市西区にある花田会館を訪れた。 花田会館は、花田洵弥・光枝夫妻が提供してくれている個人会館である。 この年の三月、静…
山本伸一は、田原薫に言った。 「『御義口伝』は難解かもしれない。それでも挑戦し、一節でもいいから、身で拝そうとしていくんです。すごい力になるよ。 私も、戸田先生にお仕えして以来、深く心に刻んできた『御義口伝』の一節がある。 『一念に億劫の辛労…
追善法要が行われた翌日の十月四日午後、山本伸一は、妻の峯子や北海道総合長の田原薫らと共に、石狩川の渡船場に立った。 一九五四年(昭和二十九年)八月、戸田城聖と共にここに着き、厚田村を訪れたのである。 滔々と流れる雄大な石狩川の対岸には、色づ…
一九六一年(昭和三十六年)十二月、北海道女子部の部長である嵐山春子が病のために他界した。 漆原芳子は、嵐山という、尊敬する先輩であり、苦楽を共にしてきた最愛の同志を失ったのである。 再び彼女は、友の死の意味を問うた。今度は、答えは明らかであ…
巻頭言 信仰とは不屈の旗なり 創価学会名誉会長 池田大作 恐れるな 蓮華の法は 何ものも 乗り越え楽しく 境涯長者と 人生は早い。月日の経(た)つスピードは、年齢を重ねるごとに、加速していくように感じられるものだ。 日蓮大聖人は、「命限(いのちかぎ…
「蘭室の友」のスクラムを 創価学会名誉会長 池田大作 今日もまた 雄々しく生きなむ 朗らかに 人間帝王 三世を見つめて 「太陽の如く、わが心は揺るぎなし。ゆえに、我もまた常に光り輝く!」──千年の昔、シルクロードの大詩人バラサグンは叫んだ。 日蓮仏法は…
君よ! 創価の全権大使たれ 創価学会名誉会長 池田大作 決然と 広布に戦う 英雄は 創価の誉れの 君とあなたと 「私は人生の道で出会った人たちに、思い切って真心の言葉をかけていった」「みんなと一緒に歩むところに道ができていくのだから」 東欧の平和の先…
信心で勝て! 社会で光れ!! 創価学会名誉会長 池田大作 美しき 我らの魂 永遠に 守れや光れや 悪世の社会に 人生も社会も、「光」と「闇」との戦いである。時代の闇(やみ)が深ければ深いほど、妙法の当体である我が生命から、赫々(かっかく)たる希望の光を…
「健康長寿の生命を勝ちとれ!」 創価学会名誉会長 池田大作 断固して 健康勝ちとれ 偉大なる 君の命は 使命の生命と 「人生にかける理想があり、それに向かって全魂を打ち込んで進む時、人間はいつまでも若いのです」と、ロシアの芸術の母ナターリヤ・サー…
君よ、青春勝利の勇舞を! 創価学会名誉会長 池田大作 我が青春 悔いなく生き抜け この道で 晴れの使命を 宝と抱きて 20世紀の大歴史学者トインビー博士との対話の折に、私は「これからの青年が一番心がけるべきことは?」と尋(たず)ねたことがある。 博士…
英知の学生部よ! 勝ち光れ 創価学会名誉会長 池田大作 素晴らしき 知性と情熱 漲りて 世紀の勝鬨 わが弟子見つめむ 「人間の頭脳ほど力強い存在は、宇宙のどこにもない」 これは、ロシアの宇宙開発の父ツィオルコフスキーの確信であった。 人間と生まれてき…
世界一の婦人部に幸(さち)の宝冠(ほうかん)を! 創価学会名誉会長 池田大作 世界一 誇る われらの 婦人部は 福徳ゆたかに 使命も尊く 歴史を振り返れば、残酷(ざんこく)な戦乱(せんらん)や抑圧(よくあつ)や宿命(しゅくめい)に、どれほど多くの女…
一九五七年(昭和三十二年)夏、戸田城聖と共に北海道を訪問した山本伸一は、函館にも立ち寄った。 その折、漆原芳子の真剣な活動への取り組みを聞き、激励の歌を贈った。 東海の 歌を詩いし 人よりも 君ぞ雄々しや 広布の指揮とれ 「東海の歌を詩いし人」と…
助教授候補となった漆原芳子は、小樽や苫小牧へ、御書講義に行くようになった。 困ったことには、御書を開いてもわからないことばかりである。しかし、身近には、教えてくれる人はいなかった。 悩んだ。教学理論誌の『大白蓮華』を第一号から取り寄せ、必死…
漆原芳子が函館支部の女子部の責任者になって三カ月後、再び教学部の任用試験が迫ってきた。 当時、教学部員になるには、まず教学部員候補採用試験を受けなければならなかった。 この試験に合格したあと、「当体義抄」「撰時抄」、御消息文、「三重秘伝抄」…
漆原芳子は、病を克服しようと、懸命に信心に励んだ。すると、入会三カ月余りで、職場に復帰することができた。 その直前、あの「小樽問答」が行われた。彼女も、この法論を傍聴した。 山本伸一の司会第一声から相手の誤りを突き、学会が大勝利を収めたので…
座談会では、中心者の婦人が、人間の幸・不幸と信仰の関係について、熱心に語ってく れた。 漆原芳子も母も、心から納得した。そして、二人だけでなく、父、同居している弟、妹も一緒に入会したのだ。 一九五四年(昭和二十九年)十二月のことである。 最初…
漆原芳子が、割れた窓ガラスで負傷したころ、東京の美術館に向かう友人たちは、青函連絡船「洞爺丸」に乗船し、函館港防波堤の灯台近くの海上にいた。 「洞爺丸」の船長は、天候は回復すると判断し、約四時間遅れで、午後六時三十九分に函館港を離岸した。だ…
漆原芳子は、北海道の函館生まれで、子どものころから画家を志し、東京の美術大学への進学を希望していた。 しかし、父親が定年を迎え、家には経済的な余裕がなかった。 彼女は、奨学金を受け、地元の北海道学芸大学函館分校(当時)の二年課程に進んだ。美…
生命は永遠である。ゆえに、老いとは、終局を待つ日々ではない。今世の人生の総仕上げであるとともに、次の新しき生への準備期間なのである。 命の尽き果てるまで、唱題に励み、師と共に、愛する同志と共に、広宣流布の大願に生き抜いていくのだ。 そして、…
日蓮大聖人は、仏界の生命を確立して亡くなった方は、死後も、すぐに、九界のこの世界に帰って来て、広宣流布の大舞台に躍り出ると述べられた。 生死は不二である。生と死は、別のものではなく連続しており、いわば表裏の関係にあるといってよい。 死して「…
死の解明は、宗教の使命である。そこから、いかに生きるかという人生観がつくられていく。 ゆえに日蓮大聖人は、「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(御書一四〇四p)と仰せになっている。 また、大聖人は、信心を貫き通した人は、死後も、妙法によ…
追善法要に集った人びとは、目を輝かせながら、山本伸一の話に耳を傾けていた。 「私たちは、必ず臨終の時を迎えます。しかし、生命は永遠です。自分の生命がなくなるわけではありません。大宇宙に冥伏するんです。 ちょうど、一日を終えて、眠りに就く よう…
石崎好治は、草創の地区部長、支部長などを歴任する一方、北海道教育部長も務め、一九七五年(昭和五十年)に他界するまで、人間教育の開拓のクワを振るい続けてきたのである。 山本伸一は、石崎をはじめ、名誉称号が授与される故人の名前が読み上げられるた…
山本伸一には、石崎聖子の胸の内がよくわかった。彼は、笑顔で包み込むように語った。 「この座談会は、大成功でしたよ。 何も悲観する必要はありません。あの教員の方々の心には、しっかりと、仏法のこと、学会のことが打ち込まれていますよ。 それに、私は…
山本伸一は、静かだが、力のこもった口調で語り始めた。 「もし、皆さんが、仏法について、本当にお聞きになりたいのなら、お話しさせていただきます。 まず、私の話を最後までお聞きください。 仏法の概要について述べたあと、質問もお受けし、懇談いたした…
質疑応答に入ると、教員たちは、「信心で幸せになれるというなら、学会員に失業者や、病気で苦しんでいる人がいるのは、おかしいではないか」などと反論し始めた。 担当の地区部長は、「今は、そうでも、信心を続けていけば、必ず解決できます」と答えた。す…