小説「新・人間革命」厚田 48  2012年8月10日

漆原芳子が、割れた窓ガラスで負傷したころ、東京の美術館に向かう友人たちは、青函連絡船「洞爺丸」に乗船し、函館港防波堤の灯台近くの海上にいた。
「洞爺丸」の船長は、天候は回復すると判断し、約四時間遅れで、午後六時三十九分に函館港を離岸した。だが、出航してほどなく、収まると思っていた風が、急速に強まっていった。
危険を回避するため、防波堤付近に投錨したが、激しい風と波に船は流され始めた。
最大瞬間風速は五十メートルを超えた。浸水も始まった。
やがて機関が故障し、航行不能となった。
船長は、沈没を避けようと、近くの遠浅の浜辺・七重浜座礁させたが、大波を受けて船は横倒しとなり、午後十時四十五分ごろに沈没したのである。
乗客乗員ら合わせて千三百十四人のうち、救助された人は、わずかに百五十九人で、死者・行方不明者千百五十五人という、日本の海難史上、最悪の大惨事となったのだ。
このニュースに、芳子は愕然とした。
東京に向かった彼女の友人たち十数人のうち、助かったのは二人であった。
芳子は、人間の力では抗することのできない、運命の不条理を感じた。
そして、割れたガラスで傷ついた、痛む足を引きずりながら、葬儀に参列したのだ。
自分の足の傷も癒えないうちに、今度は父親が交通事故に遭い、「再起不能」と診断されたのである。
母親は、あまりのショックに血圧が上がり、床に伏す日が続いた。
同居していた妹も、原因不明の意識障害に悩まされていた。
芳子は、自分の人生が、真っ暗闇のように感じられた。
そんな時、知り合いの婦人に誘われ、母と共に学会の座談会に参加した。
そこには、人びとの笑顔があり、希望があふれていた。
「宗教は信頼と希望であり、希望は宗教の本質」(注=2面)とは、チェコスロバキア共和国の初代大統領マサリクの叫びだ。