2017-04-01から1ヶ月間の記事一覧
山本伸一は、言葉をついだ。 「意見というのは、人の数だけあるといっても過言ではない。 ましてや世代などが違えば、意見は異なって当然です。 座談会のもち方一つでも、平日の夜がいいという人もいれば、土曜や日曜の夜がいいという人もいる。 日曜の昼が…
青年たちは、真剣な顔で、山本伸一の話に耳を澄ましていた。 「青年幹部の側は、先輩の壮年や婦人の幹部に賛成してもらうためには、まず、説得力を培っていくことです。 それには“なぜ、それが大事なのか”を、明快に、理路整然と説明できなくてはならない。…
山本伸一は、来る日も来る日も、神奈川研修道場や新宿文化会館などで、各地や各部の代表らと懇談し、指導・激励を続けた。 一部の週刊誌などは、相変わらず学会批判を続け、捏造、歪曲した報道も盛んであった。 しかし、伸一は、悠然と、太陽が己の軌道を黙…
山本伸一は、十一月十六日の本部幹部会は学会創立四十九周年を記念する式典であるだけに、わずかな時間でも出席し、同志と共に新しい広宣流布のスタートを切りたかった。 彼は、会合の途中で入場した。大多数の参加者が、久しぶりに伸一の姿を目にした。 揺…
11月16日、創価学会創立49周年を記念する本部幹部会が、東京・巣鴨の東京戸田記念講堂で開催された。 講堂の立つ豊島区には、初代会長・牧口常三郎と第二代会長・戸田城聖が軍部政府の弾圧によって投獄された東京拘置所があった。 牧口は、ここで殉難の生涯…
若い力が育てば、未来は希望に光り輝く。 九月の創価大学の訪問で山本伸一は、試合を控えたラグビー部のメンバーや、野球部、卓球部の代表とも記念のカメラに納まった。 十月には、創価大学の体育大会に臨み、閉会式であいさつした。 社会にあって、あらゆる…
若い力が育てば、未来は希望に光り輝く。 九月の創価大学の訪問で山本伸一は、試合を控えたラグビー部のメンバーや、野球部、卓球部の代表とも記念のカメラに納まった。 十月には、創価大学の体育大会に臨み、閉会式であいさつした。 社会にあって、あらゆる…
山本伸一は、創立者として創価大学、創価高校・中学、東京創価小学校の諸行事等にも、極力、出席するように努めた。 彼は、人生の最後の事業と定めた教育に、今こそ、最大の力を注ごうと決意していたのである。 九月には、創大生や学園生の代表と一緒に、国…
巻頭言 若き君よ!仏法を試みよ 池田 大作 「池田君、何があっても、青春は『当たって砕(くだ)けろ』の勇気でいこぅよ!」 若き日、悪戦苦闘(あくせんくとう)の只中(ただなか)で、敬愛(けいあい)する先輩が声をかけてくれた励(はげ)ましが、今も胸…
試練を越えて 凱歌の花は咲く 君よ 対話の春を舞いに舞いゆけ 調布文化会館を訪れた池田先生ご夫妻を出迎えたのは、誓いを込めた大桜のオブジェ。 師は友の真心に“満開の千年桜の見事さに功徳もかくあれ”と念願した(1992年4月3日) 父母と 試練の坂を…
法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり (上野殿御消息、1528ページ) (通解) 法華経(御本尊)を持つ人は、父と母の恩を報じているのである。 自分の心には父母の恩を報じているとは思わな…
山本伸一の功労者宅を中心とした家庭訪問は続いた。 「敬老の日」である九月十五日には、東京・狛江の草創の同志の家を訪ね、家族と和やかに懇談し、皆で記念のカメラに納まった。 五月以来、既に三十軒目の家庭訪問となっていた。 さらに、狛江文化会館を訪…
山本伸一は、長野の同志に対して、全精魂を注いで激励に次ぐ激励を重ね、八月二十八日、敢闘の九日間を過ごして東京へ戻った。 この長野訪問は、長野広布の歩みのうえでも、創価学会の歴史のうえでも、時代を画する新しいスタートとなった。 しかし、それが…
八月二十七日、山本伸一は、長野研修道場から小諸文化会館を訪れた。 ここでも三回にわたって、三百人ほどの人たちと記念撮影をし、さらに代表と勤行し、懇談した。 伸一は、どこまでも題目第一に、「勇敢なる信心を! 地道なる信心を!」と訴えた。 研修道…
山本伸一が激励した人のなかに、佐久から来た柳坂亘・志津夫妻がいた。 二人は、研修道場の庭の整備のために、伸一の滞在中も、連日のように通って来ていたのである。 亘は、六十歳前後の造園業を営む壮年であった。伸一は夫妻に言った。 「研修道場を大切に…
三台の撮影台を使って写真撮影が行われたが、長野研修道場は長蛇の列が途切れることはなかった。 飯山、長野、上田から、穂高、松本から、塩尻、諏訪から、飯田、伊那から、続々と同志は集って来た。 山本伸一は、記念撮影が終わるたび、皆に声をかけ、語り…
御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり (檀越某御返事、1295ページ) (通解) 主君に仕えることが、法華経の修行であると思いなさい。 「あらゆる一般世間の生活を支える営み、なりわいは、全て実…
日月は地におち須弥山はくづるとも、彼の女人仏に成らせ給わん事疑いなし、あらたのもしや・たのもしや (松野殿御返事、1390ページ) (通解) たとえ、日や月が地に落ち、須弥山が崩れることがあったとしても、かの女性が仏に成られることは疑いない。 …
長野研修道場には、三台の撮影台が設置されていた。 午後一時前、山本伸一は、「さあ、戦いの開始だ!」と峯子に言うと、ポロシャツ姿で皆の待っている研修道場の前庭に飛び出していった。 「お待ちしていました。ようこそおいでくださいました。二十一世紀…
蔵林家では、主の龍臣と妻の芳乃の孫たち十人が、琴やハーモニカ、横笛の演奏、合唱などで、山本伸一たちを歓迎した。 子どもから孫へと信心が受け継がれ、すくすくと育っている未来っ子の姿が微笑ましかった。 仏法が、地域へ、社会へと広まり、そして子ど…
蔵林龍臣は七十一歳であり、五人の子どもたちも、広宣流布の庭で活躍していた。 この日も、アメリカに永住している四男以外は元気に集い、孫も含め、賑やかに山本伸一と峯子を迎えてくれた。 蔵林は、伸一を床の間の前に案内した。 「こちらにどうぞ!」 「…
山本伸一は、石塚勝夫に言った。 「お父さん、お母さんを、生涯、大切にするんですよ。父母の恩に報いることから、人間の道は始まります。 報恩の心を忘れない人が、真の仏法者なんです」 さらに、個人会館を提供してくれていることへの感謝を伝えながら、日…
昼前から降りだした雨は、次第に雨脚が強くなっていた。 山本伸一は、佐久市の功労者宅を訪問するため、長野研修道場を出発した。 雨のなか、翌日の記念撮影のために、青年たちが県道沿いの空き地で草刈りをしていた。 伸一は、同行していた幹部に言った。 …
山本伸一は、入会三十二周年となる八月二十四日を、長野研修道場で迎えた。新しい決意で出発を誓い、真剣に勤行した。 昼過ぎには、青年たちと自転車で周辺を回った。戸田城聖が最後の夏を過ごした地を巡ることで、在りし日の恩師を偲びたかったのである。 …
山本伸一の心からの願いは、皆が強盛に信心を貫き、幸福になることだけであった。 退転・反逆者や宗門僧は、創価の師弟を分断しようと、伸一が会合で指導したり、「聖教新聞」に登場したりできないように陰で画策を進めてきた。 その逼塞した状況のなかで、…
田森寅夫は、歯を食いしばりながら信心を続けていくと、学校に給食のパンを卸せるようになり、また、外国人客も増えていった。 さらに、大手の洋菓子店へも卸すことになり、彼の店は、軽井沢を代表する老舗のベーカリーとして評判になっていった。 彼は、商…
二十一日夜の懇談の折、山本伸一は、軽井沢支部の初代支部長・婦人部長を務めた田森寅夫と妻のタミとも語り合った。 寅夫は、一流ホテルで修業を積んだパン職人で、心臓病で苦しんでいたタミが信心し、元気になっていく姿を目の当たりにして、一九五五年(昭…
残暑の東京を発って二時間半、夜霧に包まれた軽井沢は肌寒かった。 山本伸一が長野研修道場に到着すると、地元の幹部や役員など、数人が出迎えた。 会長を辞任したあと、「聖教新聞」などの機関紙誌で、彼の行動が報じられることは、ほとんどなかったためか…
山本伸一は戸田城聖から軽井沢に招かれ、戸田の小説『人間革命』の感動を語りながら、深く心に期すことがあった。 ──戸田の『人間革命』は、彼の分身ともいうべき「巌さん」が、獄中で、生涯を広宣流布に生き抜く決意をしたところで終わる。 一九四五年(昭…
巻頭言 創価の女性は たゆまぬ太陽なり 池田大作 生きとし生けるものに春の喜びが訪れるのも、たゆまぬ太陽の燃焼(ねんしょう)があるからである。 御書には、「太陽が東の空に昇れば、天の空は、 すべて明るくなる。『大光(たいこう)』を備(そな)えて…