2017-07-01から1ヶ月間の記事一覧
「東京凱歌」――この書を私が記したのは、昭和58年であった。5月3日を祝賀し、八王子の東京会館の完成を記念して書き留めた。 今その地には殉教の先師を宣揚する東京牧口記念会館が立つ。 先師に捧げる「東京凱歌」「創価の凱歌」を轟かせてくれた全同志…
全同志の祈りと団結で勝ち開いた「立正安国」の凱歌(がいか)こそ、牧口先生と戸田先生への何よりの報恩(ほうおん)であろう。 7月6日は、両先生が、戦時中の法難で、軍部政府に逮捕された日である(昭和18年)。 74星霜を刻んだこの日、私は総本部の恩師…
関西文化会館に戻った山本伸一は、設営グループ「鉄人会」メンバーが集っていることを聞くと、「お会いしよう」と、喜び勇んで励ましの語らいを重ねた。 実は、メンバーは伸一に使ってほしいと、イスを作って届けていた。 彼は、その真心に応えたかった。ま…
五日の午後、山本伸一は、まず、大阪の男子部部長会に出席して指導した。 「地道な戦いのなかに人生の開花がある。青年時代は悩みと葛藤の日々かもしれない。 しかし、焦ることなく、着実に、粘り強く、信心、学会活動に励み、生活の場で、職場で実証を示し…
五月五日は、「創価学会後継者の日」である。 関西文化会館では、午前十一時から、高等部、中等部、少年・少女部の代表が集い、第五回「後継者の日」記念勤行会が行われた。 一年前、山本伸一は神奈川文化会館でこの日を迎えた。 未来部員の集いに出席して、…
四日は、関西文化会館の落成を祝う大阪支部長会が、四回に分けて開催されることになっていた。 山本伸一は、“大事な支部長・婦人部長の皆さんと、共に新しいスタートを切りたい”と、すべての支部長会に出席し、全魂を注いで指導した。 「健康第一で、はつら…
五月四日の午前中、山本伸一は、大阪府豊中市の関西戸田記念講堂で行われた鳥取県の勤行会に出席した。 わざわざ鳥取から集って来た同志である。 彼は力の限り励まし、勇気づけたいと会場に駆けつけた。 鳥取の友の会合に出席するのは、一九七八年(昭和五十…
山本伸一は、記念勤行会のあと、関西文化会館内の別会場へ足を運び、集っている同志を励ました。 さらに、夕方五時からの記念勤行会にも出席した。 彼は、ピアノも弾いて激励した。随所で、参加者と記念撮影し、固い握手を交わし続けた。 いつの間にか彼の手…
関西文化会館では、会長の十条潔が出席して、既に記念勤行会が始まっていた。 山本伸一は、会場である同会館の三階に向かい、勤行会の最後に入場した。 皆、今か今かと、伸一の登場を待っていただけに、喜びは一気に爆発した。 彼はマイクに向かった。 「輝…
山本伸一は、別館の外にある非常階段に向かった。役員の青年が言った。 「別館の広間の常勝会館は第二会場で、本会場の話を音声で聴けるようになっています」 「そこにいらっしゃる方々を、まず最初に激励しよう」 非常階段を上る伸一に峯子も続いた。 この…
五月三日、関西文化会館では、「創価学会の日」記念勤行会が開催されることになっていた。 開会は午後一時の予定であった。 しかし、朝からメンバーは喜々として集い、周辺は、人であふれた。しかも、ほとんどが勤行会の入場整理券を持たない人たちであった…
福岡へ向かう車中、山岡武夫は、宗門僧への憤怒と悔しさを必死に堪えていた。 山岡が訪ねた住職は、「自分たちから学会員に、脱会して寺につくように言ったりはしない」と言明していた。 ところが、卑劣にも、陰で脱会を唆したのだ。 その点を突いても、言を…
山本伸一は、五月一日午後、福岡市西区(後の早良区)の九州記念館を訪問。 夜には博多区の九州平和会館での福岡県本部長会に出席し、師子の魂を注ぎ込む思いで訴えた。 「『広宣流布の胸中の旗』を、断じて降ろしてはならない!」 「『折伏の修行の旗』を、…
三十日の夕刻、山本伸一は福岡市博多区の九州文化会館(後の福岡中央文化会館)に着いた。 車を降りて最初に向かったのは、会館に集って来た同志のところであった。 多くの人たちは、会館には来たものの、伸一とは会えないのではないかとの思いがあった。 そ…
山本伸一が長崎駅に到着すると、彼を見送ろうと、たくさんの人たちが来ていた。 伸一は、駅員や乗客の迷惑にならないように気遣いながら、励ましの言葉をかけた。 「ありがとう。皆さんのご苦労を、私はよく知っております」 「幸せになってください。いや、…
三十日、山本伸一は午後一時過ぎに長崎を発って、列車で福岡に向かう予定であった。彼は、その前に、どうしても訪問しておきたいところがあった。 稲佐町にある、壮年部県書記長の大林喜久丸の家である。 一九七三年(昭和四十八年)の三月、北九州市で行わ…
山本伸一は、長崎文化会館から、報道各社合同の記者会見会場である長崎市内のホテルへと急いだ。 記者会見では、第五次訪中で見聞した中国の様子や感想などについての質問を受けた。 そのあと、訪中団メンバーと解団式を兼ねて会食懇談を行い、皆をねぎらっ…
山本伸一は、長崎空港から長崎文化会館へ向かった。彼の長崎訪問は、十二年ぶりであった。 伸一は、県長の梅森嗣也から、文化会館で長崎支部結成二十二周年記念幹部会が行われていることを聞くと、直ちに会場に顔を出した。大拍手がわき起こった。 「お久し…
新しき世紀へ、新しき戦いは開始された。 四月二十九日の午後一時四十分(現地時間)、山本伸一たち一行は、上海虹橋空港を発ち、帰国の途に就いた。 伸一が向かった先は、九州の長崎であった。 彼は、新たな広宣流布の道を開くために、今こそ、創価の師弟を…
人は、出会いによって「知人」となり、語らいを重ねることで「友人」となり、真心を尽くし、共感し合うことで「心友」となる。 山本伸一と巴金は、さらに交流を続け、深い信頼と強い友誼の絆に結ばれていく。 巴金は、その後、中国作家協会の主席となる。二…
人は、出会いによって「知人」となり、語らいを重ねることで「友人」となり、真心を尽くし、共感し合うことで「心友」となる。 山本伸一と巴金は、さらに交流を続け、深い信頼と強い友誼の絆に結ばれていく。 巴金は、その後、中国作家協会の主席となる。二…
訪中前の日本での語らいで、山本伸一は、巴金ら中国作家代表団に、「次回は、革命と文学、政治と文学、平和と文学などについて語り合いましょう」と言って、再び会うことを約したのである。 そして、第五次訪中で、二十四日に伸一が主催した北京での答礼宴の…
山本伸一は、二十八日、蘇歩青との会談に続き、夕刻には作家・巴金の訪問を受けた。 巴金は、『家』『寒夜』などの作品で世界的に著名な中国文学界の重鎮であり、中国作家協会の第一副主席であった。 巴金との会談は、これが二回目であった。 今回の訪中を控…
二十八日の午後、宿舎の錦江飯店に戻った山本伸一のもとへ、復旦大学の蘇歩青学長が訪れた。 伸一は、復旦大学へは一九七五年と七八年(昭和五十年と五十三年)に図書贈呈のために訪問しており、蘇学長とは旧知の間柄である。 蘇歩青は著名な数学者であり、…
二十六日の夕刻、山本伸一は宿舎の榕湖飯店で、桂林市画院の院長で広西芸術学院教授の李駱公と懇談した。 李院長は日本留学の経験もあり、著名な書画家、篆刻家である。 書や絵画について話が弾んだが、次の言葉が、伸一の心に深く残った。 「書道というもの…
同行した中日友好協会の孫平化副会長の話では、「漓江煙雨」といって、煙るような雨の漓江が、いちばん美しいという。 だが、桂林の景観が醸し出す詩情に浸りながらも、話題は現実の国際情勢に及んでいた。 前年末に、ソ連がアフガニスタンに侵攻したことか…