2014-08-01から1ヶ月間の記事一覧
伝持の人無れば猶木石《もくせき》の衣鉢《えはつ》を帯持《たいじ》せるが如し(顕仏未来記、508㌻) 通解 (経典があっても)仏法を持《たも》ち、伝えていく人がいないので、それはちょうど木像や石像が法衣を着て、鉢を持っているようなもので、何の役に…
今年は又七月《ふづき》一日《ついたち》身延山に登りて慈父のはかを拝見す、子にすぎたる財《たから》なし・子にすぎたる財なし(千日尼御返事、1322㌻) 通解 (あなたの子息・藤九郎守綱《もりつな》が)今年もまた7月1日に身延山に登って、慈父(阿仏…
家へかへらんにはさき《前》に人を入れてと《戸》のわき《側》はし《橋》のした《下》むまや《厩》のしり・たかどの《高殿》一切くらきところを・みせて入るべし(四条金吾殿御返事、1175㌻) 通解 家に帰る時には、先に人を館《やかた》に入れて戸の脇、橋…
創価学会に入会した母親の谷沢千秋は、息子の徳敬以上に、真剣に信心に励んだ。 彼女は、秋田県の生まれで、幼少期に両親と共に北海道へ渡った。 小樽、函館、札幌などを転々とした。 十三歳の時に両親と生き別れになり、北見の親戚の家に身を寄せた。 愛情…
谷沢千秋の子息・徳敬は、四十代半ばの壮年であった。 初夏の太陽が照りつける国道を見ながら、ワイシャツ姿で雑貨店の店番をしていた。 すると、乗用車が止まった。一人の男性が息を弾ませて駆けてきた。 顔見知りの北海道長の高野孝作であった。 「谷沢さ…
勤行会を終えた山本伸一は、直ちに車で北海道研修道場を出発した。 札幌に戻るため、再び百四十キロの道のりを、釧路空港へと走った。 海岸沿いの国道に出ると、北方四島の一つである国後島が見えた。 沖縄本島よりも大きな島で、標津から二十四キロほどの距…
大白蓮華 2014年(平成26年)8月号(No.777) 巻頭言 未来部は地球家族の旭日なり 創価学会名誉会長 池田大作 人の生命が誕生する。それは、全宇宙から地球に贈られた、かけがえのない宝といってよい。 「子どもこそ人類の創造者」と謳(うた)ったイタリア…
大白蓮華 2014年(平成26年)8月号(No.777) 巻頭言 未来部は地球家族の旭日なり 創価学会名誉会長 池田大作 人の生命が誕生する。それは、全宇宙から地球に贈られた、かけがえのない宝といってよい。 「子どもこそ人類の創造者」と謳(うた)ったイタリア…
別海指導最終日の十六日、昼前には、青空が広がった。気温も二二度を超えた。 北海道研修道場には、前夜に開催が決まった勤行会に参加するため、別海、中標津、標津、羅臼の友が、喜び勇んで集って来た。 山本伸一と会うのは、初めてという人がほとんどであ…
幹部会に引き続いて、北海道研修道場の広場で、「燎原友好の集い」が行われた。 空は晴れ、鮮やかな緑の光彩が目に染みた。 合唱あり、勇壮な空手の演武あり、民謡踊りあり、和太鼓の演奏あり、野点ありの、楽しいひと時となった。 山本伸一は、終始、皆の輪…
別海滞在三日目の十五日、山本伸一の熱は、いくらか下がっていた。 この日は、午後一時前から、釧路圏と道東圏の支部長・婦人部長らが参加し、北海道幹部会が開催された。 幹部会では、出来上がったばかりの、支部長・婦人部長バッジの授与式が行われた。全…
懇談会には、経済苦と格闘している大ブロック長もいた。 彼の経営していた水産加工の工場は、前年、アメリカとソ連が自国の漁業専管水域を二百カイリとし、実施に踏み切ったことから大きな打撃を受 けた。 経営は不振となり、やむなく工場を畳み、山菜を採っ…
山本伸一は、六月十四日夕刻には、北海道研修道場開設五周年を記念する勤行会に出席した。 開会前、彼は、屋外で参加者を出迎え、集って来た、根室、厚岸の二本部のメンバー一人ひとりに声をかけた。 「ようこそ! お会いできて嬉しい」 「本当にご苦労様で…
菅山勝司は、牛舎に次いで、サイロ、二階建てのブロック造りの住居を完成させた。 農機具も中古を購入し、自分で修理をしながら使った。 飼料も自給に努め、牧草を研究し、栄養価の高い草を育てた。 見事な黒字経営となった。人びとの奇異の目は、感嘆と敬意…
第十九回男子部総会で大きな感動を呼んだ杉高優の体験談をもとに、学会本部では映画を製作した。タイトルは「開拓者」である。 作品を観賞した山本伸一は言った。 「別海から、こうしたすばらしい体験が生まれる背景には、皆を励まし、指導してきた「信心の…
然れども此等の人人には・ゆづり給はずして地涌の菩薩に譲り給へり、されば能く能く心をきた《鍛》はせ給うにや(四条金吾殿御返事、1186㌻) 通解 しかしながら、仏はこれらの人々(舎利弗や迦葉、観音や妙音等の菩薩)には妙法を譲られないで、地涌の菩薩…
末法に入《いり》て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり(三大秘法抄、1022㌻) 通解 末法に入《はい》って、今、日蓮が唱えている(南無妙法蓮華経の) 題目は、末法に入る前の時代とは異なって、自行と化他の両方にわたる南…
地涌の青年の陣列は無限 地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし、若《も》し日蓮地涌の菩薩の数に入らば豈《あ》に日蓮が弟子檀那・地涌の流類《るるい》に非ずや(諸法実相抄、1359㌻) 通解 地涌の菩薩の先駆けは日蓮一人であ…
夫れ須弥山の始《はじめ》を尋ぬれば一塵なり・大海の初は一露なり・一を重《かさ》ぬれば二となり・二を重ぬれば三・乃至十・百・千・万・億・阿僧祇の母は唯・一なるべし(妙密上入御消息、1237㌻) 通解 そもそも、須弥山の始めを尋ねれば一つの塵であり…
酪農家の朝は早い。午前五時には、牛舎を掃除し、牛に配合飼料を食べさせ、搾乳して牧草を与える。 搾乳は日に二回。その間、季節ごとに、牧草地に肥料をまいたり、牧草を収穫したりするなどの作業がある。 それ以外にも、自給のための畑仕事などもあり、す…
酪農家の朝は早い。午前五時には、牛舎を掃除し、牛に配合飼料を食べさせ、搾乳して牧草を与える。 搾乳は日に二回。その間、季節ごとに、牧草地に肥料をまいたり、牧草を収穫したりするなどの作業がある。そ れ以外にも、自給のための畑仕事などもあり、す…
雨脚は、次第に激しさを増していく。しばらく行くと、道の傍らに何かが、うずたかく積まれているのがわかった。 干し草の山だ。菅山勝司は、自転車を止めて、潜り込んで雨をしのいだ。ほどなく雨はあがった。 また、自転車を漕ぎ始めた。喉が渇くと、道端に…
釧路で男子部の会合が開かれる前日、菅山勝司は、牛の餌になる牧草を刈り取りながら、迷い続けていた。 釧路までは列車で三時間ほどである。この時、彼は、一円の金もなかった。 “来いと言ったって、どうやって行けばいいんだ……” 空を見上げては、ため息をつ…
菅山勝司が、信心を始めた動機は、「食べるのがやっと」という生活から、抜け出したかったからである。 未来には、なんの希望も見いだせなかった。 また、もともと内気で、口べたであることに劣等感をいだき、それを克服したいとの、強い思いもあった。 そん…
翌六月十四日、山本伸一は、北海道研修道場訪問の記念植樹をしたあと、構内を散策した。 研修道場は、別海町北部に位置し、標津町との境界になる当幌川下流の右岸にある。 霧のなかに、緑の森が続き、湿原には白い水芭蕉が微笑んでいた。 伸一は、湿原の小道…
別海町には、乳製品をはじめ、サケ、エビ、アサリ、ホタテなどの産物がある。 山本伸一は、その話を聞くと語った。 「それらの特産を、もっと宣伝していくことも大事でしょう。 また、そうした食材を使って、別海の名を冠した製品を開発していってはどうでし…
山本伸一は、石沢清之助・ヤス夫妻の信心の勝利を讃えた。 学会員の功徳の体験を聞くことこそが、伸一の最高の喜びであった。 そのあと、彼は、石沢の自宅と隣接している店に顔を出し、従業員にも声をかけた。 見送る一家に、彼は言った。 「今日は、ありが…
石沢清之助とヤスは、釧路会館で山本伸一の指導を受けると、決意を新たにした。 彼らは、一九五八年(昭和三十三年)に入会してからの来し方を思った。そもそも夫妻が信心を始めたのは、次男の宏也の心臓病を治したい一心からであった。 入会してほどなく、…
山本伸一の乗った車は、再びスピードをあげた。彼は、同乗していた田原薫に尋ねた。 「途中、私が訪問すべきお宅があったら、お訪ねしますので、言ってください。次は、いつ来られるかわからないからね」 「ありがとうございます」 田原が最初に案内したのは…
六月十二日、十三日と札幌での諸行事に出席した山本伸一は、十三日午後四時、道東指導のために、飛行機で釧路へ向かった。道東の訪問は、十一年ぶりである。 伸一は、道東では開設五周年を迎える別海の北海道研修道場を初訪問し、地域広布の開拓者たちと会う…