求道53  2014年8月15日

 
酪農家の朝は早い。午前五時には、牛舎を掃除し、牛に配合飼料を食べさせ、搾乳して牧草を与える。
搾乳は日に二回。その間、季節ごとに、牧草地に肥料をまいたり、牧草を収穫したりするなどの作業がある。そ
れ以外にも、自給のための畑仕事などもあり、するべきことは山ほどある。
菅山勝司は、経済的にも苦闘を強いられていた。郵便配達や板金工場などのアルバイトをし、必死になって働きながら、学会活動に励んだ。
五分、十分が貴重だった。
一九六一年(昭和三十六年)、彼は、学会の組織にあって、男子部の「班長」を経て、地区の男子部の責任者である「隊長」の任命を受けた。
別海の男子部は百二十人になっていた。
菅山の活動の足も、自転車からオートバイへと変わっていた。
百キロ、二百キロと走る日も珍しくなかった。〝この人を育てようと思ったら、何日でも通い続ける〟というのが、彼の信条であった。
六四年(同三十九年)、学生部員であった青年が教員となり、中標津の小学校に赴任してきた。
広大な地域と厳しい自然は、彼の学会活動への意欲を萎えさせた。
菅山は、その彼のもとにも、七十キロの道のりを、毎日、バイクで通い続けた。
語らいを続けて一週間目。会合を終えて、彼の家に駆けつけた。戸を叩いても返事はない。〝せっかく来たのだから待ってみよう〟と、玄関の前に腰を下ろし、御書を開いた。季節は四月である。
周囲には雪が残り、外気はまだ、肌を刺すように冷たい。
教員の青年は、既に就寝していたのだ。数時間が経過した。青年は目を覚まし、窓から玄関を見た。白い息を吐きながら座っている人影があった。
ドキリとした。菅山だった。
〝寒気のなか、待ってくれていたのだ!〟
「菅山さん!」
思わず、叫んだ。その目に、涙があふれた。
二人は語り合った。菅山の思いやりと真剣さに打たれ、青年は立ち上がった。凍てた友の心を溶かすものは、炎の情熱だ。