2017-04-16から1日間の記事一覧
御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり (檀越某御返事、1295ページ) (通解) 主君に仕えることが、法華経の修行であると思いなさい。 「あらゆる一般世間の生活を支える営み、なりわいは、全て実…
日月は地におち須弥山はくづるとも、彼の女人仏に成らせ給わん事疑いなし、あらたのもしや・たのもしや (松野殿御返事、1390ページ) (通解) たとえ、日や月が地に落ち、須弥山が崩れることがあったとしても、かの女性が仏に成られることは疑いない。 …
長野研修道場には、三台の撮影台が設置されていた。 午後一時前、山本伸一は、「さあ、戦いの開始だ!」と峯子に言うと、ポロシャツ姿で皆の待っている研修道場の前庭に飛び出していった。 「お待ちしていました。ようこそおいでくださいました。二十一世紀…
蔵林家では、主の龍臣と妻の芳乃の孫たち十人が、琴やハーモニカ、横笛の演奏、合唱などで、山本伸一たちを歓迎した。 子どもから孫へと信心が受け継がれ、すくすくと育っている未来っ子の姿が微笑ましかった。 仏法が、地域へ、社会へと広まり、そして子ど…
蔵林龍臣は七十一歳であり、五人の子どもたちも、広宣流布の庭で活躍していた。 この日も、アメリカに永住している四男以外は元気に集い、孫も含め、賑やかに山本伸一と峯子を迎えてくれた。 蔵林は、伸一を床の間の前に案内した。 「こちらにどうぞ!」 「…
山本伸一は、石塚勝夫に言った。 「お父さん、お母さんを、生涯、大切にするんですよ。父母の恩に報いることから、人間の道は始まります。 報恩の心を忘れない人が、真の仏法者なんです」 さらに、個人会館を提供してくれていることへの感謝を伝えながら、日…
昼前から降りだした雨は、次第に雨脚が強くなっていた。 山本伸一は、佐久市の功労者宅を訪問するため、長野研修道場を出発した。 雨のなか、翌日の記念撮影のために、青年たちが県道沿いの空き地で草刈りをしていた。 伸一は、同行していた幹部に言った。 …
山本伸一は、入会三十二周年となる八月二十四日を、長野研修道場で迎えた。新しい決意で出発を誓い、真剣に勤行した。 昼過ぎには、青年たちと自転車で周辺を回った。戸田城聖が最後の夏を過ごした地を巡ることで、在りし日の恩師を偲びたかったのである。 …
山本伸一の心からの願いは、皆が強盛に信心を貫き、幸福になることだけであった。 退転・反逆者や宗門僧は、創価の師弟を分断しようと、伸一が会合で指導したり、「聖教新聞」に登場したりできないように陰で画策を進めてきた。 その逼塞した状況のなかで、…
田森寅夫は、歯を食いしばりながら信心を続けていくと、学校に給食のパンを卸せるようになり、また、外国人客も増えていった。 さらに、大手の洋菓子店へも卸すことになり、彼の店は、軽井沢を代表する老舗のベーカリーとして評判になっていった。 彼は、商…
二十一日夜の懇談の折、山本伸一は、軽井沢支部の初代支部長・婦人部長を務めた田森寅夫と妻のタミとも語り合った。 寅夫は、一流ホテルで修業を積んだパン職人で、心臓病で苦しんでいたタミが信心し、元気になっていく姿を目の当たりにして、一九五五年(昭…
残暑の東京を発って二時間半、夜霧に包まれた軽井沢は肌寒かった。 山本伸一が長野研修道場に到着すると、地元の幹部や役員など、数人が出迎えた。 会長を辞任したあと、「聖教新聞」などの機関紙誌で、彼の行動が報じられることは、ほとんどなかったためか…
山本伸一は戸田城聖から軽井沢に招かれ、戸田の小説『人間革命』の感動を語りながら、深く心に期すことがあった。 ──戸田の『人間革命』は、彼の分身ともいうべき「巌さん」が、獄中で、生涯を広宣流布に生き抜く決意をしたところで終わる。 一九四五年(昭…