小説「新・人間革命」厚田 53  2012年8月16日

一九五七年(昭和三十二年)夏、戸田城聖と共に北海道を訪問した山本伸一は、函館にも立ち寄った。
その折、漆原芳子の真剣な活動への取り組みを聞き、激励の歌を贈った。
  
  東海の  歌を詩いし 人よりも  君ぞ雄々しや  広布の指揮とれ
  
「東海の歌を詩いし人」とは、石川啄木である。啄木は、「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」(注)と、わが身の悲哀を詠んだ。
彼は函館で尋常小学校の代用教員をしていたことがある。
彼女も、函館の教員だが、さまざまな苦悩を背負いながら、人びとの幸せを願い、広宣流布のため、北海の大地を東奔西走している。
伸一は、この健気なる同志を、心から賞讃し、励ましたかったのである。
芳子は、伸一が歌を揮毫してくれた色紙を目にした時、それまで胸の底に澱んでいたものが、サッーと取り除かれていく思いがした。
それは、自分はなぜ、あの日、「洞爺丸」に乗らずに救われたのか。それは、どんな意味があるのかという疑問であった。
そうだ! 私には、北海道広布の使命があったからこそ、生きているんだ! これからは、あの事故で自分の命は終わったものと思って、わが人生を広宣流布に捧げよう!彼女の苦闘は続いたが、両親も健康を回復し、次第に経済苦も解決していった。
六〇年(同三十五年)五月三日、伸一が第三代会長に就任し、学会は怒濤の大前進を開始した。この年十一月、芳子は北海道女子部の副部長となった。部長は、嵐山春子である。
芳子は、陰の力に徹して、嵐山を支え抜いた。二人は、北海道の白地図を広げては、広宣流布の未来図を熱く語り合った。
人のため、社会のため、法のために魂を燃やす時、未来に希望の光彩は広がる。
 
■引用文献
注 石川啄木著「歌集 一握の砂」(『啄木全集 第一巻 歌集』所収)筑摩書房