小説「新・人間革命」厚田 54  2012年8月17日

一九六一年(昭和三十六年)十二月、北海道女子部の部長である嵐山春子が病のために他界した。
漆原芳子は、嵐山という、尊敬する先輩であり、苦楽を共にしてきた最愛の同志を失ったのである。
再び彼女は、友の死の意味を問うた。今度は、答えは明らかであった。
嵐山さんは私に、生きることのすばらしさ、ありがたさを教えてくれたんだ
漆原には、嵐山が私の分まで、生きて、生きて、生き抜きなさい! 私の分まで、戦って、戦って、戦い抜きなさい!と叫んでいるように感じられた。
生きて信心に励める人には、他界した法友の志を受け継ぎ、戦う使命がある。
それが故人への最高の回向となるのだ。
嵐山の後を継いで、漆原は北海道女子部の部長となった。
また、教職を辞して、北海道本部の職員となり、札幌に移り住んだ。
彼女は、全道を走り回った。
釧路へ行くには、各駅停車の列車で十時間以上かかった。
猛吹雪のなか、日本最北端の市・稚内を訪れたこともあった。
留萌では、バスが故障し、車内で七時間を過ごしたこともあった。
夕張にも、岩見沢にも通った。
原野を抜け、山を越え、一人の女子部員に会うために走った。
漆原は、やがて結婚し、斉田芳子となる。婦人部に移行後、七○年(同四十五年)には北海道婦人部長に就任し、北海道広布の女性リーダーとして活躍してきたのである。
彼女の入会以来、二十三年がたとうとしていた。
斉田は、厚田の戸田講堂で行われた北海道広布功労者の追善法要で、再び決意を新たにするのであった。
私は、こうして、日々、元気に学会活動に励むことができる。それは、亡くなった同志の分まで頑張るためなのだ。
嵐山さん! また、亡くなられた多くの先輩の皆さん! 私は、命ある限り、広宣流布のために、人びとの幸せのために、走って、走って、走り抜きます!