小説「新・人間革命」厚田 44 2012年8月6日
死の解明は、宗教の使命である。そこから、いかに生きるかという人生観がつくられていく。
ゆえに日蓮大聖人は、「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(御書一四〇四p)と仰せになっている。
また、大聖人は、信心を貫き通した人は、死後も、妙法によって守られることを、譬喩を用いて、次のように述べられている。
「けは(嶮)しき山・あしき道・つえを・つきぬれば・たをれず、殊に手を・ひかれぬれば・まろぶ事なし、南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給へ、釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給うべし」(同一二二七p)
〈険しい山や悪い道であっても、杖をつくならば、倒れることはない。ことに手を引かれるならば、転ぶことはない。
さらに、こう続けられている。
〈日蓮が、先に霊山へ行くならば、あなたをお迎えにいくこともあるでしょう。
強盛な信心を貫いているならば、どこまでも御本仏に守られ、しかも、大聖人と共にあることを明言されているのである。死は、決して恐れるべきものではないのだ。
また、大聖人は、われらの死後の生命が、どうなるかについても、「滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来って」(同五七四p)と仰せである。
滞りなく最高の寂光世界(仏界)への往生を遂げ、たちまちのうちに、九界の生死の夢のなか、すなわち人の世に帰って来ると、明言されているのだ。