小説「新・人間革命」 共戦 38 2011年12月27日

日本での布教でザビエルは、創造主という神の概念を、いかにして伝えるかに悩んだ。
日本人信徒が、キリスト教で説く神の「デウス」を、真言宗の「大日」(大日如来)と訳したことから、ザビエルも、そう語っていった。
しかし、デウス大日如来とでは、全く意味が異なることがわかり、「大日」と訳すことをやめている。試行錯誤の連続であったのであろう。
ザビエルは、単に教義だけでなく、地球が丸いことや、太陽の軌道、流星、稲妻などについても教えた。
日本人は、その豊富な科学的知識に、強い関心を示していった。
ところで、彼の書簡には、「説教にも、討論にも、最も激しい反対者であった者が、一番先に信者になった」とある。
激しく反対をする人は、それだけ強い信念と関心をもっているということである。したがって、心から納得すれば、決断も潔いのであろう。
また、それは、ザビエルが、どんなに激しい反対に遭おうが、微動だにすることなく、愛と確信とをもって、理路整然と、粘り強く語り抜いたことを示している。
ザビエルは、他の宣教師たちに訴えている。
「あなたがたは全力を挙げてこの地の人びとから愛されるように努力しなさい」
人間的な信頼を勝ち取ってこそ、布教も結実するのである。
ザビエルが山口に滞在して、二カ月が過ぎた時には、約五百人の人びとが洗礼を受けたという。
これに、驚き慌てたのが、諸宗の僧たちであった。檀徒が改宗することで、自分たちの生活基盤が危うくなることを恐れたのである。
ザビエルは、改宗した檀徒に、僧たちが悪口雑言を浴びせたと記している。
彼は、日本での布教のあと、日本文化に多大な影響を与えた中国での布教の必要性を痛感し、中国をめざした。
しかし、中国は鎖国下にあり、広東の上川(シャンチョワン)島で本土上陸を待ちながら、一五五二年、病に倒れ、四十六歳の生涯を閉じたのである。