小説「新・人間革命」 共戦 37 2011年12月26日

フランシスコ・ザビエルは、山口での滞在は一カ月余りで、京の都に出発する。
時は、まさに戦国の世である。彼らの旅は、盗賊の襲撃や、冬の寒苦に苛まれながらの、過酷な道のりであった。
しかも、たどり着いた京の町は、戦乱で激しく破壊されていた。
彼らは、献上品を平戸に置いてきたこともあり、天皇との謁見はかなわず、早々に引き返さねばならなかった。
ザビエルは、山口で宣教していくことを考え、一度、平戸に戻る。
日本では、地位の高い人と会って話し合いをするには、外見や威儀を整えることが重要であると痛感した彼は、衣服や献上品を取りに帰ったのである。
彼は、再び守護大名大内義隆に会う。今度は、用意していた、インド総督とインドのゴアの司教から託された親書を携え、総督の使節として謁見した。
時計や銃、メガネなどの献上品も用意していた。
大内義隆は、ことのほか感激し、返礼に、金や銀を与えようとする。しかし、ザビエルは、丁重に断り、宣教の許可のみを求めた。
快諾が得られた。また、彼らの活動の拠点となる寺も与えられた。
町のあちこちに、文書が貼り出された。そこには、神の教えを説くことを認め、信者になることも自由であると記されていた。
僧や武士をはじめ、多くの人びとがザビエルのいる寺を訪れ、説教を聴き、さらに、長時間に及ぶ討論が繰り返された。
言語も、考え方も、全く異なる日本での宣教に、ザビエルは苦慮し、奮闘した。
日本人に神の教えをわかりやすく伝えるために、日本人信徒の協力を得て、自ら日本語の説明書も作った。
かつて彼は、インドネシアのテルナテ島での宣教で、ポルトガル語で書いた説明書を現地語に訳し、区切って歌えるようにしたこともあった。
子どもも、大人も、これを口ずさみ、異教徒までもが歌うようになっていった。
わかりやすく教えを説き、深く民衆に根差すなかに、宗教の流布はある。