小説「新・人間革命」 共戦 53 2012年 1月17日

信心の現証を痛感した山村年子は、一途に学会活動に励むようになった。ある時、大阪に住む学会員の知人から、山本伸一が関西を訪問することを聞いた。
山村は、「ぜひ、室長にお会いして、徳山の座談会での失礼をお詫びしたい。また、入会後、病も乗り越えたことを報告したい」と思い、関西本部に伸一を訪ねた。
「山村さんでしたね。あなたのことは、よく覚えていますよ。信心し、健康になられて本当によかった。立派になりましたね」
彼女は、自分のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。
「あの時の座談会では、反発ばかりして、申し訳ございません。もともと、人に負けたくないという心が強い性格なんです」
伸一は、笑いながら語った。
「それを仏法では、修羅の生命と説いているんです。外見は立派そうでも、内心では、『常に人よりも勝っていたい』と思い、他人を自分より下に見て軽んずる。
その『勝他の念』が修羅の本質です。
そして、虚勢を張ったり、地位や権力を誇示して、自分を偉く見せようとする。また、自分より優れ、名声や尊敬を集めている人がいると、憎み、嫉妬する。
日蓮大聖人は、『諂曲なるは修羅』(御書二四一p)と言われている。『諂曲』というのは、自分の心を曲げて、人に媚びへつらうことです。
修羅は、驕り高ぶってはいても、本当の力も、自信もないから、強大な力の前では、不本意でも、ひれ伏し、媚びへつらう。本質は臆病なんです。
ずるいんです。実は、そこに、自分を不幸にしていく要因がある。その生命と戦っていく力が、仏法なんです。
広宣流布の大願に生きるならば、自分に打ち勝つ力が湧きます。
その時、修羅の生命は、仏界所具の修羅界、菩薩界所具の修羅界となって、悪を打ち破る大力となり、常勝への執念となります。
ともかく、信心は素直に頑張るんですよ」