小説「新・人間革命」 勝利島 45 2015年9月11日

 離島本部からの報告では、小笠原諸島には、三十世帯を超えるメンバーがいるとのことであった。
山本伸一は、首脳幹部を通して、小笠原を訪問する離島本部の幹部に伝言した。
「この機会に、小笠原に大ブロックを結成してはどうでしょうか。学会本部ともよく話し合って、人事なども、具体的に検討してください。
また、島の皆さんに、こう伝えてください。
『地理的には遠くとも、御本尊を通して、広宣流布に生きる私たちの心はつながっています。私は、日々、皆様の健康とご一家の繁栄を、真剣に祈り続けております』」
そして、島の同志への記念品を託した。
離島本部長の三津島誠司らが、小笠原諸島の父島に到着したのは、五月四日朝のことであった。船酔いの苦痛のなか、船を下りると、数人のメンバーが、こぼれるような笑みを浮かべて待っていた。そのなかに、母島から来たという、七十二歳の男性もいた。父島と母島とは、約五十キロ離れている。
「本部から幹部の方が来られると聞いて、もう待ち遠しくて、二日前から父島へ来て待っとりました。山本先生はお元気ですか」
彼は本土にいた時、ある会合で伸一が語った、「生涯、私と共に広宣流布に生き抜いてください」との言葉を胸に焼きつけ、母島で一心に信心に励んできたという。
「師弟の誓い」に生き、「使命」を自覚した同志が、「広布の大道」を切り開いてきたのだ。
三津島たちは、求道心にあふれた、その純粋な姿に、生命が洗われる思いがした。
――小笠原の広布は、一九六八年(昭和四十三年)に小笠原の島々が日本に返還され、本土などに強制疎開させられていた人たちが、父島に戻った時から始まっている。そのなかに佐々本卓也や浅池隆夫らの学会員がいたのである。
佐々本は、漁業を行うために漁業協同組合をつくって組合長を務め、浅池は、東京都の小笠原の漁業調査船の船長となった。