【第17回】 物理学者 アインシュタイン (2015.8.1)

みんな元気かな? 夏休みを楽しくすごしていますか?
みなさんの健康と無事故を、私は一生けんめい祈っています。
車で出かける人もいるでしょう。そこで「クイズ」です。高速道路で、となりを走っている車と同じスピードで、みなさんの乗っている車が走ると、みなさんからは、どのように見えるでしょうか?
答えは、「止まっているように見える」――です。
では、これが「秒速30万キロ(1秒で30万キロ進む)」というスピードの「光」だったらどうですか? つまり、「光」と同じスピードで「光」を追いかけたら、どう見えるでしょうか?
このむずかしい大問題を、16歳の時から10年間も考え続けた科学者がいます。アインシュタイン博士です。
「光と同じスピードで光を見ても、光は止まって見えないし、追いつくこともできない。変わらないスピードで先へ進んでいる」――これが博士の結論でした。
それは、のちに「相対性理論」とよばれる、物理学の常識をひっくり返す大発見となりました。今から、110年前(1905年)のことです。
この発見のおかげで、テレビやパソコンなど、私たちが現在、使ったり目にしたりする科学技術の土台がつくられていったのです。
アインシュタイン博士には、ノーベル物理学賞が贈られました。博士がその決定のニュースを知ったのは、1922年の秋、日本での講演を終えて帰る船の中でした。私の恩師・戸田城聖先生は、このときの講演を、師匠の牧口常三郎先生とともに聞きに行かれました。そのことを、生涯のほこりにされ、私たち青年によく語られました。
私が戸田先生の会社で「少年日本」という小学生向け雑誌の編集長をしていた時、第1号(1949年10月号)で、アインシュタイン博士のことをのせました。博士が、世界から尊敬される偉人となっても、いばらず、子どもが大好きな心やさしい人だったことを、未来の指導者に育ちゆく子どもたちに知ってもらいたかったからです。
きょうは、私にとって一番大切な、少年少女部のみなさんと、この偉大な博士のことを学びたいと思います。
 
アインシュタイン博士は、1879年3月、ドイツの南にある小さな町で生まれました。言葉をおぼえるのがおそかったので、お父さんやお母さんはとても心配しました。小学校では、暗記の科目が得意でなく、スポーツや音楽も楽しくありませんでした。
だれだって苦手なものがある。それに引きずられて、自信をなくさなくていいんだよ。上手にできるものをふやしていけば、苦手なものも、だんだんできるようになっていきます。
アインシュタイン少年が5歳になったある日、お父さんがプレゼントをくれました。中には針が一本あり、「東西南北」の方向が示してありました。「方位磁石」です。だれもさわっていないのに、どの方向に向けても、針が必ず北をさしますね。
アインシュタイン少年はおどろきました。そしてこの時、目に見えるものを動かす「目に見えない力」があることを知ったのです。
それから、電気技師だったおじさんや、家にやってくる医学生にすすめられて、科学の本を読むようになると大好きになり、算数や理科が得意になりました。
しかし、お父さんの仕事がうまくいかなくなり、あと1年で卒業という時に、ギムナジウム(日本の中学と高校にあたる学校)をやめてしまいました。大学の受験も不合格でした。1年浪人して、ようやく入学でき、卒業後は研究者になりたかったのですが、今度は就職に失敗しました。家庭教師などをしながら、なんとか、自分の研究を続けていったのです。
このように、若き日のアインシュタイン博士は、うまくいかないことばかりでした。くやしいことも多かった。
しかし、博士には すばらしい才能 がありました。それは、「ふしぎだなあ!」と思ったことがあると、「どうしてだろう?」と分かるまで考え続けたことです。考えて分からなければ、だれにでも質問して、教えてもらいました。
 
やがて、アインシュタイン博士は、世界の名門の大学の教授となって、大活やくするようになりました。
しかし、ヨーロッパでは第1次世界大戦という大きな戦争が始まりました。それが終わると今度は、第2次世界大戦という世界中をまきこんだ戦争にひろがりました。最新の科学技術が兵器に使われ、尊い命がうばわれていきました。博士のまわりの人々も、次々と戦争のぎせいになりました。
科学は、世界をすくうために使うべきであり、科学者は平和のために戦うべきだ――博士は、こう考えていました。その博士を、うちのめす出来ごとがおこりました。
第2次世界大戦が終わろうとしていた70年前の夏、「原子爆弾」が、8月6日には日本の広島、9日には長崎に落とされました。何十万人もの人が、いっぺんに亡くなり、街は焼け野原になりました。生き残った人たちも、原爆の「ほうしゃせん」をあびた後遺症に苦しめられました。
原爆投下のニュースを聞いた時、アインシュタイン博士はうめき声をあげたといいます。原爆には、博士が発見した理論が応用されていたのでした。
戦争が終わっても、世界の国々はきそって核兵器をつくり、次に戦争がおこれば、人類がほろびるほど増えてしまいました。
博士は、この世から核兵器をなくすために、決然と立ち上がりました。どこにでも出かけて、核兵器の恐ろしさについて語りました。新聞やラジオのインタビューもたくさん受け、原稿も書きました。
ラッセル=アインシュタイン宣言」という、核兵器をなくすことを呼びかける宣言にも、世界の科学者とともに署名しました。それは、亡くなる一週間前のことでした。さいごまで、自分にできることを考え、平和のために行動し続けたのです。
このアインシュタイン博士のよびかけにこたえ、核兵器をなくす宣言に署名した一人、ロートブラット博士とも私は語りあってきました。
ロートブラット博士は、創価学会が博士たちと同じころから核兵器をなくすために行動してきたことを、「大変感銘をおぼえ、うれしく思います」と語られていました。
戸田先生は青年への第一の教えとして、「原水爆禁止宣言」を発表し、核兵器のない世界を築こうと、うったえられました。私は、先生の思いを受けつぎ、世界の同志のみなさんとともに戦ってきました。その戦いは、核兵器がなくなる日まで変わりません。
 
アインシュタイン博士が、幼いころから探究してきた「目に見えない力」。さまさまな宇宙のはたらきのなかで、一番大きな力は何か。
博士は「想像力は世界を包み込むことができる」と言っています。「想像力」という「心の力」は、世界を包むほど大きいというのです。
心は見えません。しかし、その見えない心が、自分自身の未来を切り開き、まわりの人々の心を動かして、世界の未来を決めていく。平和を築いていくのです。
「他人の喜びをともに喜び、他人の苦しみをともに苦しむ、これこそが、人間にとって最も素晴らしい生き方です」とも博士は言っています。
喜んでいる人がいれば、手を取って喜びあう。苦しんでいる人がいれば、その苦しみを想像してみる。よりそっていく。それは、みなさんのお父さん、お母さんが、私と心を一つにして毎日毎日、やっていることです。
この「平和の心」を受けつぐ偉大な人が、私が最も信頼する少年少女部のみなさんなのです。
 
アインシュタインの言葉は、 『アインシュタイン 希望の言葉』 志村史夫監修・翻訳(ワニ・プラス)から。参考文献は、フィオナ・マクドナルド著 『伝記 世界を変えた人々19 アインシュタイン日暮雅通訳(偕成社)、佐藤文隆著 『アインシュタインが考えたこと』 (岩波書店)、戸田盛和著 『アインシュタイン 16歳の夢』 (岩波書店)、瀬川昌男著 『アインシュタイン』 (潮出版社)、B・G・クズネツォフ著 『アインシュタイン 上』 益子正教ほか訳(合同出版)、デニス・ブライアン著 『アインシュタイン――天才が歩んだ愛すべき人生』 鈴木主税訳(三田出版会)、熊谷高幸著 『天才を生んだ孤独な少年期』 (新曜社)ほか。