小説「新・人間革命」大道 17 2015年3月2日

行こう! 友のもとへ。
今日も、励ましの対話を交わそう!
語った分だけ、希望の春風を送ることができる。幸福の種子を植えることができる。
四国指導を終えて岡山文化会館に戻った山本伸一は、翌七月二十七日午後、岡山から新幹線で名古屋へ向かった。
この日の夜、「中部の日」記念幹部会が開催され、席上、伸一が、中国指導の激務の合間を縫うようにして作詞した「中部の歌」が発表されることになっていたのだ。
中部の同志は、これまで、関西の歌をはじめ、中国の歌「地涌の讃歌」、四国の歌我等の天地」、九州の歌「火の国の歌」と、各方面の歌が相次ぎ発表されていくなかで、「中部の歌」の誕生を待っていたのである。
伸一は、そうした同志の心に応えようと、岡山、米子と奔走しながら、歌詞を作り、推敲を重ねてきたのである。
中部では、二年前の一九七六年(昭和五十一年)に、「広宣流布の新時代にふさわしい中部の歌を作ろう」との機運が高まり、制作委員会を設けて歌詞を募集した。
しかし、応募作品のなかには、これぞ、と思う歌詞はなく、正式な「中部の歌」は決まらなかった。
話し合いを重ね、「歌詞は、できれば先生に作っていただこう」ということになった。
そして、前月の末に、中部の幹部が、その要請を伸一に伝えた。
「もちろん、私は応援しますが、まず、みんなで歌を作ってみてはどうだろうか」中部の有志で、作詞作曲に取り組んだ。
七月十九日、関西から岡山入りした伸一のもとへ、出来上がった歌の合唱を録音したカセットテープ、歌詞、楽譜が届いた。
「手直ししてください」とのことであった。
伸一は、推敲を始めた。「中国の歌」「四国の歌」などの作詞と並行しながらの作業である。彼は、必死であった。
「全同志の胸に勇気の火をともすのだ!」との一念が、次々と魂の言葉を生み出していった。力は?懸命?という泉から湧き出す