小説「新・人間革命」大道 24 2015年3月10日

山本伸一は、諄々と語っていった。
日蓮大聖人は『法妙なるが故に人貴し』(御書一五七八p)という原理のうえから、『一閻浮提第一の聖人』(同九七四p)であることは明らかです。
しかし、その御境地をそのまま語り、御自身を宣揚すればどうなるか。
その結果は、『身を挙ぐれば慢ずと想い』(同九七五p)──世間は、大聖人を尊大、高慢であると受け取ってしまうことになる。
では、御自身を卑下したらどうなるのか。『身を下せば経を蔑る』──人びとが大聖
人の所持の法である南無妙法蓮華経という大法を侮り、蔑むことになる。
したがって、非難中傷を恐れず、堂々と、真実を語り抜いて、進むしかないんです。
次の『松高ければ藤長く』とは、松が高ければ、それを伝って伸びる藤も長いとの意
味です。
ここでは、南無妙法蓮華経の御本尊は最高の法、宇宙根源の法であり、その大法を信受した人の功徳、福徳は無限であり、悠々たる境涯となることを述べられている。
また、『源深ければ流れ遠し』とは、御本尊は久遠元初の妙法の当体であり、その
源は限りなく深いゆえに、その流れも遠いということです。
つまり、大聖人の仏法が末法万年まで流布し、個人にあっては、永遠の幸福を確立できる原理が示されています。
次の『幸なるかな楽しいかな穢土に於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已』の御
文は、濁世末法に生まれ、迫害の人生を送りながらも、法華経の行者として妙法を流
布する大歓喜を記されています。
穢土とは、苦しみに満ちた娑婆世界です。
しかし、大聖人は、流罪の地・佐渡にあってさえも、『流人なれども喜悦はかりなし』(同一三六〇p)と言われている。
私どもも大聖人と同じ決意に立って、妙法を信受し、広宣流布の戦いを起こすなら
ば、いかなる状況にあっても、大歓喜の境涯を確立することができるんです。
ですから、純粋に御本尊を信じ、一心に仏道修行に励んでいくことが大事なんです」