大白蓮華 8月号 巻頭言

                  人材は必勝の宝

 人材は、宝である。勝利の宝である。いな、人材こそ、必勝の宝なのである。いかなる団体であれ、組織であれ、厳しき乱世にあって、勝ち抜いていけるか、それとも敗れ去ってしまうか。その一切は、人材の育成のいかんで決する。
 わが創価学会は「人材の城」を築け!そして、永遠に勝ち栄えよ!これが、恩師・戸田城聖先生の厳命であった。

 御聖訓には仰せである。
「持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし」(465ページ)人間の価値は、財産でもなければ、地位でもない。どのような哲学を持ち、どのように実践をしているかで決まる。ゆえに、最高無上の妙法を持ち、行じ、弘めゆく創価の同志こそ、男女はきらわず、最高無上の大人材なのである。皆に、久遠からの深き使命がある。皆が、日蓮大聖人の直弟子である。一人も残らず、絶対に幸福になる権利があり、永遠の勝利者となる資格がある。
 尊き自分を決して卑下してはならない。誇り高く、希望に燃えて、自信満々と、自らの命に生きることだ。
 社会も、世界も、信念の人材を待っている。価値創造の智慧ある人材を望んでいる。対話と団結の人材を欲している。その究極の人材の薫陶が、創価学会という人間大学で生き生きとなされてきた。この誉れを忘れまい。

 今は世を挙げて、人材の開発競争が加速している時代である。アメリカの実業界で、「サーバント・リーダーシップ」と呼ばれる指標が提唱されていることは有名だ。「サーバント」とは「召使い」の意義である。つまり、「指導すること」の核心には「奉仕すること」にある、というリーダー論なのである。「誠実」や「思いやり」などの人間性の基本こそ、実は世界の最先端に通じている。
 もはや、「威張り」や「驕り」は、それだけで、すでに人材失格なのだ。大聖人は、若き南条時光への御手紙で、退転反逆の徒の本性を峻厳に喝破なされた。皆、「欲深く」「心は臆病」で、「愚かでありながら知者ぶった」見栄っ張りだ、と。
 そうした悪人を放置することは、清浄無比の和合僧に毒を流してしまう。だからこそ、厳正に戒め、攻め抜かねばならぬ。
 なぜ日興上人が、あれほどまでに徹低して五老僧の違背を呵責なされたのか。悪を滅する戦いに徹してこそ、令法久住の大河が流れ通うことを知らねばならない。
 「前軍のくつがえすは後車のいましめ」(1083ページ)との御金言の通り、悪逆の輩の転倒を冷徹に見極めながら、清々しい正義の道を切り開いていくことだ。そして、師子身中の虫を一掃し、新しい広宣流布の力ある人材を糾合しゆくことである。
 その人材の根本の要件は、「学会厳護」「師弟不二」そして「破邪顕正」である。

 アメリカの思想家エマソンは、「正義はつねに戦士を必要とする」と叫んだ。人材を育てる人が、真の人材である。後輩を自分以上に偉く伸ばす人が、本当に偉い先輩だ。真剣な二十一世紀使命会をはじめ、未来部の育成に尽力してくださっている方々に感謝は尽きない。高等部も、中等部も、そして少年少女部も、私が第三代に就任して間もなく、将来を遠望して、手づくりで結成した部である。
「十年樹木、百年樹人」(十年先を考えるなら木を飢えよ。百年先を考えるなら人を育てよ)とは、中国の英知の箴言である。
 あの大田区の座談会で、私が戸田先生に巡り会ってより、今年の八月で六十年目となる。「旗持つ若人何処にか」と、先生は、地湧の青年を待ちわびておられた。
 平凡にして病弱な無名の一青年を、十二年にわたり訓練し、真正の師子に鍛え上げてくださった。その大恩は、広大無辺である。
 激戦のなかでこそ、人材は生まれる。あの言論問題の嵐の渦中に、私は詠んだ。

     打ち続く
      死闘の大難
       乗り越えて
      きら星 光る
       人材 育ちぬ

 時は来り、時は満ちて、「地湧の義」は厳然と、日本そして全世界に、後継の若き師子が躍り出ている。不思議なる「必勝」の大使命を帯びた、宝の人材群である。
 「願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ」(1589ページ)との一節を、私は捧げたい。