2007年11月21日付 聖教新聞 第2回 関西最高協議会での名誉会長のスピーチ 下-1

2007年11月21日付 聖教新聞
第2回 関西最高協議会での名誉会長のスピーチ 下-1

苦労している人のもとへ
◎自ら先頭に立った知将・楠木正成
指導者は「同志への感謝」を持て

 一、わが愛する関西の記念会館で開催された、今回の本部幹部会。
 そこで私は、皆様方への心からの感謝を込めて、"大桶公"などの曲を、ピアノで弾かせていただいた(大拍手)。
 兵庫・湊川の戦いに赴く武将・楠木正成と長子・正行の別れを謳った"大桶公"は、戸田先生の大好きな曲であった。
 昭和32年(1957年)の春4月13日。大阪での激闘のなか、私は、正成が築いた千早城の址に足を伸ばし、関西の同志と思い出を刻んだ。
 正成の本拠地である、大阪の千早城は、周りを深い谷に囲まれ、背後に金剛山がそびえる天然の要害であった。
 地の利を知り尽くした正成は、この山城で防備を完壁に固めた。そして、あらゆる知恵を尽くし、独創的な戦術で、大軍勢の猛攻撃にも耐え抜いていったのである。
 「千人に足ぬ小勢」で「一日が中に五六千人」を打ち倒した──『太平記』には、こう記されている。
 次元は異なるが、広宣流布の運動にあっても、リーダーは、全同志のために智慧の限りを尽くしていかねばならない。
 民衆を苦しめる悪と戦い、幸福と平和の連帯を広げる名指揮を、よろしく頼みます!(大拍手)

 大阪を自転車で
 一、作家・大彿次郎氏の小説『大桶公 楠木正成』(徳間文庫)には、傑出した智将の姿が生き生きと描かれている。
 正成は、自ら勇んで戦いの先頭を駆けた。大佛氏の作品に、こんな一幕がある。
 「正成自身が、この一日で馬を何頭か乗り潰していた。東口にいたかと思うと、住吉の方角にまた西門の近くに馬を立てていた。今もまた、新しい馬に鞭をあてて、敵の退却と並行して走っていた」
 苦労している友のもとへ──私も、大法戦の指揮を執った若き日に、大阪中をかけずり回った。常に題目を唱え抜きながら、自転車で、辻々を回り、小さな路地へと入っていった。
 車を持っている人など、ほとんどいなかった時代である。自転車を何台も乗りつぶしたことを思い出す。
 苦楽をともにした同志のことを、私は生涯、忘れない。同志への感謝があるところ、力は無限にわき出ずるものだ。
 また大彿氏の作品では、正成の妻、すなわち息子・正行の母にも、光が当てられている。
 正成の死後、妻は、息子の正行を、父の後継者として立派に育て上げていった。
 大彿氏は、こう結論している。
 「(正行を)小楠公として雄々しく出発させる鉄のような意志に変えたのは母である」
 「(母は)泣きもせぬ。歎きもせぬ。ただ、この子を父親と同じものに引上げる。心からの、その祈りであった」
 正行の母の言葉が、関西の広宣流布の母たちと二重写しとなり、胸に迫ってならない。
 そして、わが関西には、この常勝の父母の祈りの通りに、後継の青年が陸続と育っている。
 これほど、うれしいことはない(大拍手)。

ローマの哲学者
絶えず困難と戦ってきた者は 倒れても膝で立って戦い続ける

 苦境を支える柱 
 「私は現在、中国を代表する歴史学者である章開?(しょうかいげん)先生と対談を進めている。
 人間の世界は、いつの時代も、どの社会も、矛盾と葛藤と複雑性に満ちている。そのなかで、正義を揺るぎなく貫き通していくための希望の光とは何か。
 それは「師弟」に生き抜くことである。この一点で、章先生と私は深く一致した。
 章先生は、こう語っておられた。「私の人生を振り返っても、最も苦しかった文化大革命の暗黒の時代、私を支える柱となったのは、師である揚東●(ようとうじゅん)(じゅん=草冠+純)先生の存在でした。そうした師をもてたことは、私の最大の幸福だと思っています」
 また、中国には、古典である『後漢書(ごかんじょ)』の一節に由来する「尊師重道」(師を尊び、道を重んじる)という思想があると述べ、こう言われた。
 「人類の文化の大河が千年万年にわたって連綿と続いているのは、こうした幅広い意味での師の存在を抜きにしては語れないでしょう」
 まことに深い洞察であると思う。
 一、戸田先生は語っておられた。
 「古来、師弟の不二なる道ほど、深く尊く、その血脈が永遠なるものはない。師弟の栄光は、永遠である」
 戦時中、戸田先生と牧口先生は、軍部政府の弾圧によって、牢獄へ行かれた。
 牧口先生は獄死。
 戸田先生も、2年にわたる過酷な獄中闘争で体を痛めつけられた。
 しかし、それでも、牧口先生の慈悲の広大無辺は、自分を牢獄まで連れていってくださった──と感謝しておられた。
 私はこれをうかがい、「師弟の精神の根本は、ここだ」と感動した。本当に尊いことである。
 この根本をはずして、何をやってもだめだ。
 今は経済的にも恵まれ、組織もできた。交通も便利だ。すべてがある。
 草創期は、何もかも、なかった。
 私は、師匠である戸田先生に徹して仕えた。戦後、先生の事業が破綻した時に、私はすべてをなげうって先生を護り、支えた。
 あの時は、本当に大変だった。多くの人が先生のもとを去っていった。
 私は、まだ20代。給料が出ない時もあった。その中で、あちこちを駆け回って、一人一人、味方を増やしていった。一切の責任を担って阿修羅のごとく戦った。
 疲れ果てた。機烈な日々であった。
 明日のことさえ、わからなかった。私がいなければ、戸田先生は倒れていたかもしれない。それほど、先生のために尽くし抜いた。
 こういう「一人」の弟子がいるかどうか。それで未来は決まる。
 私は、悪い人間とは、真っ向から戦った。
 私が陰で必死に先生を護り、苦闘を重ねていた時、一部の幹部は、私のことを罵っていた。"池田は会合にも出てこない。退転だ"と。
 私が朝から晩まで働いて、苦境の打開のために奮闘していたことは知っていたはずである。
 じつに意地悪な、愚かな幹部であった。私は大嫌いだった。いわば"偽の学会"の姿であった。
 こうした幹部は、後に同志を裏切り、学会に反逆した。

一対一の対話で壁を破れ 語れ!語れ!仏法の真髄は友情

 師の命を継いで 
 一、先生は、ことあるごとに私を呼ばれた。私は夜中でも駆けつけた。
 折伏が進まない。「大作、頼むから、やってくれないか」
 私は、蒲田支部支部幹事。文京支部では支部長代理。実質的に支部長として指揮を執り、壁を一気に打ち破った。
 学会が伸びれば、社会からの風圧も高まる。先生は私を渉外部長に任じられた。
 私より先輩の大幹部もたくさんいた。しかし先生は、どこまでも若い私を信頼し、頼りにしてくださった。
 先生は言われていた。
 「大作のような弟子を持って、私は幸せだ」
 これが真実の創価の師弟である。
 組織や役職などの「形」ではない。要領でもない。師弟不二の命がけの闘争によって、今日の創価学会ができあがったのである。
 私は勝った。「真実の弟子の姿は、かくあるべきだ」と示しきった。今度は皆の番である。
 一、ある時、戸田先生が私の妻の実家を訪れて、男泣きに泣きながら、こう言われた。
 ──大作には、苦労ばかりかけてしまった。大作は、30歳まで生きられないかもしれない。そうなれば、学会の未来は真っ暗だ──。
 剛毅な先生だった。人前で、涙を見せるような方ではなかった。
 その先生が、人目もはばからずに泣かれたのである。
 どこまでも弟子を大切にしてくださった。ありがたい師匠であった。偉大な師匠であった。
 あれだけ体の弱かった私が、来年、80歳を迎える。本当に不思議なことだ。
 戸田先生は、「自分の命を代わりにあげて、大作を、なんとか長生きさせたい」とさえ言ってくださった。
 まさしく、戸田先生からいただいた私の命である。関西で、私は、ますます元気になった(大拍手)。
 一、日蓮大聖人に背いた五老僧の邪義を破折した「五人所破抄(ごにんしょはしょう)」には、日興上人(にっこうしょうにん)の次の主張が記されている。
 「伝え聞くところでは、天台大師に三千余りの弟子がいたが、章安大師一人だけがはっきりと誤りなくすべてに通達することができた。伝教大師にも三千人の弟子がいたが、義真(ぎしん)の後は真実の弟子は無きに等しい」(御書1615ページ、通解)
 天台大師の直弟子であった章安大師は、天台大師の講説をすべて領解し、「摩訶止観(まかしかん)」「法華文句(ほっけもんぐ)」「法華玄義(げんぎ)」の天台三大部を筆録した。さらに、天台所説の法門を百余巻に編さんした。
 また伝教の直弟子・義真は幼少から伝教大師に師事し、師が中国に渡った際には通訳の任も果たしたとされる。
 釈尊の時代においても、舎利弗や目連、迦葉や阿難などの十大弟子が活躍した。
 師弟一体の闘争によって新たな歴史は開かれる。そして、真実の弟子の闘争によってこそ、師の偉業を世界に宣揚し、後世に伝えていくことができるのである。
 章開●(しょうかいげん)(げん=さんずいへん+元)先生は、こうも語ってくださった。
 「創価の師弟は、ソクラテスプラトンの師弟に勝るとも劣らない、歴史に特筆すべき輝きを放っております」
 また、"創価学会の進んでいる道は正しく、その目標も、全人類が希求しているものです。創価学会の方々は、この偉大な団体のメンバーであることに、誇りを持つべきだと思います"とも述べておられた。
 これが最高峰の知性の言葉である。
 深い、また温かなご理解に、心から感謝申し上げたい(大拍手)。

 命を縮めても 
 「対話こそ、平和の王道である。友情の拡大こそ、仏法の人間主義の真髄である。
 私も、世界を舞台に心と心を結ぶ対話を広げてきた。そのなかでも、ひときわ印象深いのが、中国人民の父、周恩来(しゅうおんらい)総理との会見である。
 それは、昭和49年(1974年)12月5日の夜。場所は、北京の305病院。周総理は、ガンで入院しておられた。
 こちらは、私と妻のみ。先方は、中日友好協会の廖承志(りょうしょうし)会長らが同席。
 周総理は、私の手を強く握りしめて、おっしゃった。
 「池田会長とは、どうしても、お会いしたいと思っていました。お会いできて本当に、うれしいです」と。
 さらに総理は、私が同年の5、6月に初訪中したときは、「病気がひどい時分で会えなかった」と包み隠さず話してくださった。

第2回 関西最高協議会での名誉会長のスピーチ 下-2に続く


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