2008年4月9日付 聖教新聞 第2総東京最高幹部協議会でのスピーチ 中-2

2008年4月9日付 聖教新聞
第2総東京最高幹部協議会でのスピーチ 中-2

 今いる場所を使命の舞台に
 一、どんな場所であれ、今いる場所が、わが使命の舞台である。そこで最高の広宣流布の思い出を残していただきたい。
 若き日に私は、東京・大森の「青葉荘」に住んでいた。狭い部屋で座談会も行った。
 その後、大田区山王のアパートを経て、小林町に引っ越した。
 小林町の家は小さく、住み始めた最初は塀もなかった。あの家で、さまざまな方と語り合った。
 「創価学会の会長というのは、こんなに質素な生活なのですか」と驚く方が何人もおられた。わが家に気づかず通り過ぎ、探し回る人もいた(笑い)。
 大森も、山王も小林町も、いずれも、つましい家だった。しかし、いずれも、青春の金の城だった。私はそれぞれの地を拠点に、広宣流布の理想を抱いて、全力で走り抜いた。そして勝っていったのである。

 「同体異心なれば諸事叶う事なし」
 一、仏法の世界が、なぜ美しく、深く、強いのか。それは「異体同心」という究極の団結があるからだ。
 絶対勝利の4原則の第三は、「異体同心」である。これこそ、広宣流布を成就させる要諦だといえよう。
 異体同心の組織は、必ず発展する。反対に"同体異心""異体異心"の組織は、必ず衰退する。
 「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」(同1463ページ)とは、永遠に忘れてはならない大法則であり、黄金律である。
 勝負は、ひとえに異体同心の組織をどう築いていくかにかかっていると言っても、決して過言ではない。

 「水魚の思」で
 一、幾たびも拝してきた御文だが、「異体同心事」の甚深の一節を、重ねて生命に刻んでまいりたい。
 「一人の心なれども二つの心あれば其の心たが(違)いて成ずる事なし、百人・千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず、日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」(同ページ)
 異体同心の団結があれば、必ず広宣流布できる、必ず勝てるとの大確信であられた。
 有名な「生死一大事血脈抄」には、こう説かれている。
 「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」(同1337ページ)
 広宣流布は魔軍との戦いである。
 どんな金城鉄壁の城も、1カ所、どこかに隙のある場所、弱い場所があれば、そこから敵に攻め込まれてしまう。
 いわんや、城の中に「異体異心の者」がいれば、魔にたやすく城を撹乱される。
 この御文に続けて、「剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」(同ページ)と仰せの通りだ。
 あの熱願の法難(弘安2年=1279年)の前年に、大聖人が「くれぐれも、駿河の人々は、皆、同じお心でおられるように、とお伝えください」(同1479ページ、通解)と強調されたことを、深く拝していかねばならない。
 戸田先生も、「団結第一でいけ!」と徹して訴え抜いておられた。
 また、「御書にあるように『自他彼此の心なく』異体同心であってこそ、生死一大事の血脈、仏になる血脈を継いでいるのだというのです」とも語られた。

 「信心の団結」を
 一、また、「水魚の交わり」という言葉もある。
 『三国志』において、劉備玄徳が、智慧の名将。諸葛孔明との絆を重んじた故事に由来する名句である。
 ちなみに、孔明劉備よりも20歳若かった。しかし、年下だからといって、見下したりするのではない。英知が光り、正義に生きる青年を、一個の人格として、最大に尊敬していったのである。
 異体同心の団結には、上も下もない。
 「同体」ではない。「異体」である。それぞれの個性、特質を大事にして、皆が「同じ心」で、平等に力を合わせていくのである。
 戸田先生は言われていた。
 「創価学会のこれまでの発展というものは、なんの団結によるものかといえば、信心の団結以外には何ものもない。
 異体だが、同心とするものの団結である。
 心などというものは、縁に紛動されて、どうにでもなってしまう。それが同じ心になるというのは、よくよくのことだ。号令をかければ簡単にできるなどというものではないのです」
 めまぐるしく動く、自分の小さな感情にとらわれていては、「異体同心」はできない。
 富士のごとく、どっしりと、何ものにも揺るがぬ自分自身の信念を堅持することだ。そしてまた、大海原のように境涯を広げながら、同志を包み、励ましていくことだ。

一歩 一歩、広布の大道を

戸田 先生
君も苦労をしているか。それではお互いに御本尊に祈ろうではないか──これを異体同心というのです

 一、戸田先生は、わかりやすく、こうも語っておられた。
 「君も苦労しているか、君も苦しいか──それでは、お互いに御本尊を拝もうではないか。
 これを異体同心というのです」
 御書には、次のように仰せである。
 「絶対に、法華経を受持する者を互にそしる(=悪意の心でののしる)ことがあってはならない。
 その理由は、法華経を持つ者は必ず皆仏なのであり、仏をそしれば罪を得るからである」(同1382ページ、通解)
 「法華経を一偈一句でも説く人に対しては、『当に起ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし』の道理であるから、(法華経を持った者は)仏を敬うがごとく、互いに尊敬し合うべきである。たとえば、法華経の宝塔品の儀式のとき、多宝如来が半座を分けて釈迦仏を迎え、二仏が並座(並び座る)したように、互いに尊敬し合わなければならない」(同1383ページ、通解)

 「名聞名利」の輩を追い出せ
 一、さらに、「異体同心」を固める重要な点がある。それは「城者として城を破る」動きを許さぬことだ。
 師子身中の虫である「異体異心の者」と徹して戦い、その魔性の根を断ち切っていくことだ。
 戸田先生は厳命なされた。
 「いかなる幹部であろうと、広宣流布を忘れ、自己の名聞名利で、自己の派閥をつくろうとする人間には、断固として、幹部が団結し、自分勝手な利己主義の輩を追放せよ」
 "戸田の命より大切"と言われた、この創価学会の和合を、未来永遠に護り抜く。
 広宣流布の命脈は、この一点にあると訴えておきたい。

 千万の
  誉れも高き
    同志かな
  異体も同心
    永遠に不滅と

    (下に続く)

第2総東京最高幹部協議会でのスピーチ 中〔完〕


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