2008年5月18日 聖教新聞 随筆人間世紀の光 160 わが師の思い出の歌──"五丈原"と"大楠公"-1  山本 伸一

2008年5月18日 聖教新聞
随筆人間世紀の光 160 わが師の思い出の歌──"五丈原"と"大楠公"-1  山本 伸一


 勝ち誇る
  人生 築かむ
    今日もまた
 自由だ 希望だ
     勝利の歌あれ

大使命に生きる誉れの人生
「早く生い立て」と父は待つ

 私の大師匠である戸田城聖先生は、二つの歌が好きであられた。
 先生の前では、さまざまな折に、さまざまな人が、さまざまな歌を歌った。
 先生は、皆の心を大切にされ、領きながら歌を聴かれていたが、重ねて望まれる歌は稀であった。
 先生が格別に愛されて、幾たびも幾たびも、青年たちに歌わされたのは、"大楠公"と"五丈原"の歌である。
 どちらも、先生に最初にお聴かせしたのは、私であった。
     ◇
 大桶公
 父子の正義の
    魂か
 勝利の歴史を
    馬上豊かに

 先生は「少年たちが歌ってきた歌かもしれないが」と微笑まれながら、"大楠公"の歌を、よく所望なされた。

♪青葉茂れる桜井の
 里のわたりの夕まぐれ……
    (詞=落合直文

 南北朝時代の関西の名将・楠木正成(まさしげ)と、その後継の子・正行(まさつら)の父子の劇である。
 父は、大義を掲げ、死を覚悟して、足利尊氏との決戦に臨む。その死出の旅に御供を願い出た、わが子・正行に、父は故郷に帰れと諭す。
 なおも供を願い続ける息子に、父は、早く生い立て!断じて生き抜け! そして父に代わって大業を果たせ!と厳命するのである。
 父の心も、子の心も、生死を超えて、深く強く一つに結ばれていった。
 「父子同道」──父と子が、同じ使命の道を、不二の心で戦い進みゆくことは、人生の究極の劇といってよい。
     ◇
 大楠公
  我が弟子 嬉しや
    正行が
 後を継ぎゆく
     広布の舞台よ

共に歌え 共に舞え 師弟の曲
偉大なる創価孔明 立ち上がれ

 戸田先生が発願され、わが創価学会が全力を注いだ「御書全集」は、昭和二十七年の春に完成した。その祝賀の集いで、先生と二人して、この"大桶公"の歌を舞ったことも、忘れ得ぬ思い出である。
 御年五十二歳の先生は、父・正成であられた。
 齢二十四歳の私は、子の正行であった。
 先生が、流麗に舞われる。

♪正成涙を打ち払い (※本文の記号がないため♪に替えました)
 我子正行呼び寄せて
 父は兵庫に赴かん
 彼方の浦にて討死せん
 いましはここ迄来(きつ)れども
 とくとく帰れ故郷へ

 続いて、先生の舞に、私がお応えする。

♪父上いかにのたもうも
 見捨てまつりてわれ一人
 いかで帰らん帰られん
 此正行は年こそは
 未だ若けれ諸共に
 御供仕えん死出の旅

 師弟は一体となり、不二の舞を織り成していった。
 この年の五月三日、私と妻の質素な結婚式の折にも、先生は、この"大桶公"の歌の合唱を求められ、じっと聴き入っておられた。
     ◇
 "大楠公"の調べに、私は懐かしい関西の友、なかんずく、誇り高き兵庫の同志が思い起こされてならない。
 念願の、いな悲願であった、神戸市の長田文化会館への訪問を叶えたのは、二〇〇〇年の二月のことである。
 あの阪神・淡路大震災で、最も甚大な被害を受けた地にあって、厳然と聳え立ち、地域の被災者の方々の避難所となった大城だ。あまりにも尊く、健気な長田区、兵庫区、そして北区などの代表の方々との語り尽くせぬ思い──。
 私は「常勝の間」に置かれたピアノに向かった。
 楠木正成の最後の決戦の地となった湊川も、ほど近い。私は万感を胸に"大楠公"を弾かせていただいた。
 最愛の家族と、また宿縁の同志と、思いもよらぬ別れもあったに違いない。しかし、生死は不二である。
 亡くなられた方々の命を、わが命に受け継いで、立ち上がり、戦い抜いてきた勇者たちを、私は労い讃えたかった。
 そしてまた、霊山へ旅立たれた三世永遠の創価の友よ、広宣流布の陣列に、早く還り来たれとの祈りを込めて、私は鍵盤を叩いた。
 早く生い立て──大兵庫、そして大関西の"後継の正行"たちも立派に成長している。
 今日十八日、わが兵庫の音楽隊・鼓笛隊の友が「神戸まつり」に出演し、フラワーロード等を意気も高らかに大行進すると伺った。
 さらに、遠来の九州の同志を迎え、関西で、にぎやかに交流の集いも行われる。
 創価の友は躍動している。(※ここに参加しました 管理人)

 大楠公
  我らの覚悟は
   それ以上
  広宣流布
   大楠公かな
     ◇
 このたびの中国の四川大地震に、改めて心からお見舞いを申し上げたい。
 先日(五月八日)、お目にかかった胡錦濤国家主席、また、昨年(四月十二日)お会いした温家宝総理の渾身の陣頭指揮のもと、全力をあげて救援が進められている。
 犠牲者の方々のご冥福を祈念申し上げるとともに、一切を乗り越えられての復興を心よりお祈りしたい。
 私たちも常に胸に抱いている「変毒為薬」という希望の哲理は、中国の天台大師等が留め残された人類へのエールである。
     ◇
 懐かしき
  恩師を偲ばむ
    五丈原
  今朝も聴かなむ
    夕べも響かむ

 あの世界的に有名な『三国志』の大英傑・諸葛孔明の真情を、詩人・土井晩翠が美事に詠じた歌が"五丈原"──「星落秋風五丈原」である。
 これも、昭和二十八年の正月五日、私が青年たちと共に、戸田先生の前で披露し、お聴かせした歌である。
 "五丈原"の歌を歌い始めると、先生が、やがて涙を浮かべながら、深い感慨を込めて聴いてくださったことを、私は忘れることができない。
 原詩は四百行に及ぼうかという長編である。その一部を抜粋し、歌ってきた。
 著作権を継承されるご家族から快諾を得て、私の小説『人間革命』などでも引用させていただいてきた。
     ◇
♪●山悲秋(きざんひしゅう)の風更けて (※●き=示ヘン+おおざと)
 陣雲暗し五丈原
 …………
 丞相病あつかりき………

 ──諸葛孔明は、「水魚の思い」で結ばれた先帝・劉備玄徳の死後も、共に願った漢室の復興という大業を果たし、天下の安寧を実現するために、宿敵の魏(ぎ)に遠征を重ねた。
 六度目の遠征で、五丈原に進んだ。だが、対時する魏の司馬懿(しばい)は持久戦を決め込み、夏が過ぎ、秋風が吹き始めても動かない。やがて孔明は、陣中で病に倒れた──。
 晩翠の詩は、孔明の孤独の心の奥深くに鋭く迫っていた。

♪成否を誰れかあげつらふ
 一死尽くしゝ身の誠
 仰げば銀河影冴えて
 無数の星斗光濃し
 照すやいなや英雄の
 苦心孤忠の胸ひとつ
 其壮烈に感じては
 鬼神も哭(な)かむ秋の風
 …………
 千載(せんざい)の末今も尚
 名はかんばしき諸葛亮(しょかつりょう)

 「君たちに、この歌の心がわかるか」
 先生は、一座の青年に問われながら、先帝の遺業を受け継いだ道半ばに倒れ、燃え尽きんとする孔明の、慟哭の心中を語られた。
 それはそのまま、広宣流布の大将軍として、ただ一人、全責任を担い立たれた、師の孤高の魂の流露であった。
 「孔明の名は、確かに千載の後まで残るには残ったが、挫折は挫折である。
 しかし、私には挫折は許されない。広布の大事業が挫折したら、人類の前途は真っ暗闇だからだ──」
 この翌日、私は、男子部の第一部隊長に就任し、"青年拡大"の最前線に立った。
 部隊旗授与の儀式が終わったあと、戸田先生は、第二代会長に就任された時の誓願を、再び師子吼された。
 「七十五万世帯の達成ができなければ、私の葬式は出してくださるな!」
 そして最後に、私の指揮で、「星落秋風五丈原」の歌を大合唱した。何度も、何度も。

随筆人間世紀の光 160 わが師の思い出の歌──"五丈原"と"大楠公"-2に続く


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