2008年6月23日付 聖教新聞 新時代第19回本部幹部会での名誉会長のスピーチ-1

2008年6月23日付 聖教新聞
新時代第19回本部幹部会での名誉会長のスピーチ-1

歌え!正義の学会歌を
中国の文豪 歌は最も人を感動させる! 味方を団結させ 敵を挫く!

 「きょうは、お忙しい中、ご苦労さま! 遠方の皆さんも、よく来てくださった。
 海外の方々も、本当にようこそ!(大拍手)
 全同志の皆さんのおかげで、創価学会は大きくなった。全世界に広がった。
 仏法史上、いかなる教団も成し得なかった、思いもよらなかった壮挙である。
 おめでとう! ありがとう!(大拍手)
 堂々たる大教団であり、哲学の団体、そして世界平和の団体である。これは、創価学会しかない。
 広宣流布を勇んで進めておられる皆さんの功徳は大きい。永遠に輝きわたる。これが、日蓮大聖人の御断言である。
 頑張ろう!〈「ハイ!」と力強い返事が〉
 一、お母さん、お父さんがご病気の方はおられますか?〈会場から手が挙がった〉
 まず皆さんが、しっかり祈ってあげることだ。
 大変でしょう。苦しいでしょう。私も、お母さん、お父さんが、一日も早くよくなられるよう、真剣に祈っていきます。
 人間、だれもが病気になる。その中から、どう深い信心によって、一段と大きな境涯を開いていけるか。これが大事だ。
 病気と闘ったことのない人には味わうことのできない、深い深い幸福、永遠の次元の健康の喜びを味わうことができるようになる。そのための信仰である。
 何があっても、最後は必ず良い方向に進んでいけるのが、信心である。
 どうか、お元気で!
 そして親孝行をしてあげていただきたい。

 皆と一緒に!
 一、中国の文豪に、郭沫若(かくまつじゃく)氏がいる。
 周恩来総理の盟友であり、創価学会に対しても、温かく、深い理解を抱いておられた。
 郭沫若氏の言葉に、こうある。
 「歌はもっとも人を感動させるものであります」(小野忍・丸山昇訳『郭沫若自伝6』平凡社東洋文庫
 だから学会は、歌を歌いながら広まった。
 文豪の視点は鋭い。歌は人を奮い立たせる。戸田先生も、よくご存じであられた。
 我らの前進は、学会歌とともに始まる。これが正しい軌道である。
 また、ともどもに歌っていこう!
 郭沫若氏は、こうも言われた。
 「歌声は人びとの感情と意志をたちまち一つに融け合わせ、行動に転化させ得るものであります」(同)
 歌には不思議な力がある。それをバカにして歌わない人は、元気が出ないものだ。
 皆と一緒に歌おう!広宣流布のために! 人生の向上のために!──これが学会歌なのである。戸田先生も、歌が大好きであられた。

 最高の宝
 一、創価学会が目指すものは、権力よりも強く深い。平和と幸福を築く「仏法」の流布である。国法とか世間的権威とは、全く次元の違う、生命の法則である。
 その仏法を、私は戸田先生から教わった。
 「当体義抄」という難しい御書を、先生から直々に教わったのも、私である。
 師の薫陶は、毎朝少しずつ、日曜日にも及んだ。
 先生が質問を出され、私が答える。そういうこともあった。
 御書の講義を終え、先生は私に証書をくださった。"君は確かに戸田から講義を受けた"という証しである。
 ささやかな証書であった。それを私は最高の宝とした。これが最高峰の知性の象徴になっていくと信じた。戸田先生も、そう確信しておられたにちがいない。
 仏法は不可思議の法である。今、現実に、世界から英知の栄冠をお受けしている(大拍手)。
 一方、広布の栄誉を見下した人間は皆、哀れな人生をたどっている。
 「心こそ大切」(御書1192ページ)なのである。
 世間の評判は、重大なように見えても、人間がつくったものだ。
 妙法は宇宙の法則である。スケールが全然、違う。これが分かれば、仏の境涯が開ける。
 しかし、簡単には分からないから、「信心」が大事になる。「信ずる」以外ない。
 御書には「無疑曰信(むぎわっしん)」(725ページなど)、すなわち「疑い無きを信と曰う」との釈が引かれている。御本尊を疑うことなく、題目を唱え、広宣流布の実践を買いてこそ、永遠の幸福を築いていけるのである。
 一、郭沫若氏は述べている。「歌は味方の力を団結させることができます」「歌は敵の士気をくじくことができます」(前掲『郭沫若自伝6』)
 そうだ。だから、戸田先生も、皆に、いい歌を歌わせた。学会は、いつも歌を歌ってきた。これからも歌っていこう!
 歌声高らかに、これほど明るく、威風も堂々と進んできた団体は、ほかにあるだろうか。
 戸田先生は「いい歌」と「悪い歌」の立て分けが厳しかった。青年が底の浅い歌を歌うと、「そんな歌、やめなさい!」と叱り飛ばされた。
 「いい歌だな」と言われたのは、「三国志」ゆかりの歌「星落秋風五丈原」。これは私が歌って聞いていただいた。歌うたびにハ先生は、じつと涙ぐんでおられた。
 また、父子の誓いの歌"大楠公"。これも先生はお好きであった。先生の前で、屹立して歌った。「私たちが小学生のときに歌った歌です」と申し上げると、「そうか、そうか」と微笑んでおられた。
 私はピアノを練習し、先生に"大楠公"をお聞かせした。「うまいな」と喜ばれる先生。「"五丈原"も弾いてくれないか」と言われ、「それは、ちょっと」(笑い)とご辞退申し上げたことも懐かしい。
 ともあれ、歌は大事である。皆で一緒になって歌っていきたい。
 御書には「声仏事を為す」(708ページ)とも教えられている。
 きょうの歌も素晴らしかった(大拍手)。〈幹部会の席上、白蓮グループ、女子部、白樺会・白樺グループ、婦人部の代表が合唱を披露した〉
 歌は、健康にもいい。ここには運動不足の人が多いようだ(笑い)。
 私たちは、声高らかに学会歌を歌いながら、心一つに進んでいこう!(大拍手)

 輝く世界の友
 一、先ほどは、タイのナワラット・チノミ壮年部長の名スピーチ、ありがとう!(大拍手)
 貴国のプーミボン国王を、3度にわたり表敬させていただいたことは、最高の栄誉である。
 私は、深い敬愛の念を抱いている。
 ともあれ、日本の壮年部も、頑張ろう!
 また今回、タイの同志とともに、ラオスから、法人取得後、初めて、代表のケウマニーウォン・パーリーカン婦人部長(理事長)が参加された。
 ようこそ!(大拍手)
 婦人部長のお父様は、「建国の13勇士」の一人として尊敬される、国家の大英雄であられたことも、よくうかがっている。
 「ラオス」という国名には、「輝く人間」「心情らかな人間」の意義がある。
 この天地にあって、"輝く創価の友"は、良き市民、良き国民として信頼を勝ち得てきた。
 「大切なラオスの同志に、よろしく!」と申し上げたい(大拍手)。
 さらに、ラオスではこれまで、『法華経』、またトインビー博士との対談集(邦題『21世紀への対話』)や『青春対話』が、ラオス語で発刊されている。
 私は、同志の皆様方を代表して、2年前に、名門・ラオス国立大学から「人文学名誉教授」の称号を拝受した。
 今、創価の平和の連帯は、全世界で光り輝いている(大拍手)。

「私が創価学会だ!」との誇りで

 一、芸術部の皆さんもありがとう! よく来てくださった(大拍手)。 最大に応援したい。全員が超一級の芸術家として活躍してもらいたい。
 しっかりと題目をあげて、たとえ、人気が落ちようが、お金がなかろうが、何と言われようが、平然として、「私は創価学会員です!」と胸を張って、前へ前へと勇気を持って進んでいっていただきたい。
 戸田先生は「掩は戸田城聖だ! 俺は創価学会だ! だれが何を言おうが、俺は俺だ!」と言われていた。先生の持論である。その決心で我らも進みたい。

 「油断大敵」だ
 一、また、順調な時ほど油断は禁物である。
 イギリスのチャーチル首相も、「油断大敵」を強調していた。
 勝っている時も、負けている時も、絶対に油断をしてはいけない。そして勇気があれば、すべてを勝ち越えていける──これが、極悪のナチスを打ち破った、名宰相の結論であったに違いない。

岩手・宮城内陸地震 東北の同志、頑張れ
御聖訓 「禍も転じて 幸いとなるべし」

 友よ体を大切に
 一、このたびの岩手・宮城内陸地震に、あらためて、心からお見舞いを申し上げます。
 〈東北の代表が「東北は勝ちます!」と力強く決意を述べた〉
 「大悪を(起)これば大善きたる」(御書1300ページ)、「わざはひ(禍)も転じて幸となるべし」(同1124ページ)との御聖訓の通り、すべてを変毒為薬しての復興を、心から祈ります。
 震災のあった岩手・宮城でも、衛星中継のある各会館に、また、インターネット放映の会場に、わが同志が毅然と参加されている。
 「岩手の皆さん、体を大切に!」「宮城の皆さん、お元気で!」「東北の同志、頑張れ!」と申し上げたい(大拍手)。
 さらに、日本全国のインターネット放映に集われた皆さんも、本当にご苦労さまです。
 お世話になる各会場のご家庭に、私も、ごあいさつにうかがう思いで、妻とともに、一生懸命、題目を送っております。
 来賓・友人の皆様も、ありがとうございます(大拍手)。

 蛍の平和の舞
 一、関西の創価学園から、うれしい便りが届いた。
 "今年も、「学園蛍」が見事に舞い、光りました!"というのである。
 学園出身の方は、いますか?〈会場から「ハイ」と多くの返事が〉
 皆、ずいぶん大きくなったね! あのころは、かわいかった(爆笑)。
 さて、今月14日に大阪・交野市の関西創価学園で行われた「蛍観賞の夕べ」には、地域の市民の方々が約1000人も参加された。
 私と妻も、優雅な「光の舞」に思いを馳せた。
 「蛍」には、「詩」があり、「童話」があり、「平和」がある。
 あの戦争中は、厳しい灯火管制のなか、"蛍の光"さえ認めないような暗い時代であった。
 一、私が、「かつて、『蛍川』があったこの地に、蛍を呼び起こしたらどうだろう」と提案したのは、今から30年前、1978年(昭和53年)の4月のことである。
 当時、そんなことを言う人は、いなかったようだ。
 私の提案を受けて、今は亡き松田茂行先生をはじめ、教職員、学園生の有志が、大情熱を燃やして取り組んでくれた。
 学校の先生方が、蛍の養殖に必要な、幼虫の餌になる貝(カワニナ)を採取するために、近くの川に入って作業してくださった。
 その姿を見て「金なんか落ちてないぞ!」と嘲笑う人もいたという。
 それでも、"創立者の構想を必ず実現する"との一念で、一つ一つ課題を乗り越えてくださった。私も蛍の養殖場を訪れ、激励を重ねた。

新時代第19回本部幹部会での名誉会長のスピーチ-2に続く



ブログ はればれさんからのコピーです。