2008年8月23日付 聖教新聞 文学随想 小説「芙蓉の人」を語る 上

2008年8月23日付 聖教新聞
文学随想 小説「芙蓉の人」を語る 上






笑顔は励ましの太陽!
明治時代、富士山頂で気象観測に挑んだ野中夫妻
使命に生きた千代子夫人 偉大な女性の力を証明

 池田名誉会長は、入信61周年の「8・24」に寄せて、全国の敬愛する友に「文学随想」を贈った。新田次郎の小説『芙蓉の人』を題材に、困難に挑みゆく心、使命の女性の生き方などが感動的に紹介されている。(引用等は新田次郎著『芙蓉の人』文春文庫を参照)
     ◇

 優雅なる
   芙蓉の花の
      笑顔かな

 気品ある「芙蓉」の花が咲き誇りゆく季節である。
 日本一の山・富士山(三七七六メートル)は、「芙蓉峯(ほう)」とも謳われる。
 「芙蓉」の花にも似た、麗しい英姿のゆえであろうか。
 富士の山頂は、烈風との戦いである。
 しかし、いかなる烈風が吹き荒れようとも、山頂は悠然と微笑みながら、芙蓉の花の宝冠のごとく光彩を放っている。
 折々に、その富士を写真に収めながら、思い出される一書がある。
 小説『芙蓉の人』である。
 明治時代、厳冬の富士山頂での気象観測に挑んだ、気象学者の野中到・千代子夫妻の物語である。とくに、千代子夫人に「芙蓉の人」として光が当てられている。
 かつて、女性誌(「主婦の友」)から、“結婚した女性にすすめたい本”を尋ねられたとき、この『芙蓉の人』を挙げたことも懐かしい。
 作者は新田次郎氏。山岳を舞台にした名作で名高い。以前、聖教新聞のてい談でも味わい深い人間観を語っていただいた。
 また、夫人である作家の藤原ていさんは、聖教文化講演会で何度も講演をしてくださった。
 子息であり著名な数学者の藤原正彦氏も、息女であり作家の藤原咲子さんも、聖教新聞のインタビュー等に登場してくださっている。

 学術の進歩のため

道を開くのは青年の情熱
「初めから命を賭けての仕事だ」

 新進気鋭の気象学者・野中到(いたる)は、慶応三年(一八六七年)に生まれた。牧口先生と、ほぼ同世代である。
 夫人の千代子とともに、福岡の出身である。「火の国」九州の大情熱の持ち主であった。
 野中到は、大いなる夢を抱いていた。
 ──富士山頂での通年の気象観測が成功すれば、正確な天気予報が実現して、国民の利益となり、世界に日本の名を高めることにもなる、と。
 なかんずく、富士山頂の高度三七七六メートルで、厳冬期に気象観測ができれば、世界でも
類例がないだけに、その意義は計り知れない。
 この前人未到の挑戦には、想像を絶する困難が待ちかまえていた。
 明治二十八年(一八九五年)の二月、野中青年は、厳冬の富士山の初登頂に成功した。
 それ自体が、当時にあって、不可能を可能にした登山史の大記録である。
 この夏、彼は、私財をなげうって、富士山頂に小さな観測所(六坪)を建て、危険を承知で、冬の気象観測を開始したのである。
 「初めっから死を賭けての仕事」。これが、野中青年の決意であった。
 彼は宣言していた。
 ──高層気象観測は至難の業である。しかし、わずかなりとも、この学術の進歩のため、国のための助けとなりたい。
 小さな観測所を建て、烈しい風と堅き氷のなか、観測を試みて、いささかでも、志ある人々の奮起を促したい、と。
 青年とは先駆者である。挑戦者である。開拓者である。
 すでに、でき上がった土台の上に、自分が花を咲かせるのではない。わが身を犠牲にしても、人のため、社会のため、あとに続く後輩たちのために、自分が礎となる──。
 この青年の誇り高き闘魂によって、道なき道が開かれる。
 創価学会の歴史が、まさにそうであった。これからも、そうあらねばならない。

 こまやかな女性の目

 夫人の千代子も、夫の理想を我が理想として、何があろうと成就してみせると決意する。
 千代子は、夫には秘密で、気象学を学び、体を鍛錬し、登山の準備を重ねていた。
 そして夫の後を追って、富士山頂に登頂したのである。
 こうして、この明治二十八年の十月より、夫妻による、歴史的な気象観測が始まった。
 大自然の猛威に晒された極限の状況にあって、気象観測を続けていくために、千代子の女性としての見方や行動が、どれほど大きな力となったことか。
 もともと、青年・野中が設計した観測所や観測計画には、無理があった。女性であり、母である千代子の目から見れば、観測する「人間」への配慮が乏しかったからである。
 千代子は、食事、栄養、睡眠時間、暖房、トイレ等々、観測する「人間」を守る、こまやかな配慮をしていった。
 千代子は語っている。
 「到さまは科学的にすべてを取り運んでいるつもりでいて、自分の身体に対しては、もっとも非科学的な考え方をしているのです。そして、その自分の身体が、今度の場合、一番大事なものであるということを忘れているのです」と。
 山頂は酸素も少ない。高山病との戦いが続く。
 壮絶な環境は、千代子の体調も狂わせた。しかし、そのなかでも、彼女は、殺風景な観測所に、せめてもの飾りつけをするなど、少しでも心が和らぐ工夫を怠らなかった。
 さらに、小説には、こう記されている。
 「千代子は一日に何度か声を上げて笑った。
 その笑い声を聞いているだけで到は、富土山頂にひとりでいるのではないという気持になり、千代子のためにも自分のためにもしっかりしなければならないのだと思っていた」
 笑いは力である。笑顔は励ましである。
 とりわけ、女性の聡明な笑顔、生き生きとした声の響きこそ、皆に勝ち進む活力をみなぎらせていく源泉である。
 何ごとも、根本は「人間」だ。「人間の心」である。その「心」に、明るい希望を、生きる喜びを、負けない勇気を贈り続けること──。ここに、勝利の原動力がある。
 これを忘れてしまえば、本当の力は出ない。
     ◇
 野中夫妻は、励まし合い、支え合いながら、病気と戦い、困難と戦い、気象観測を続ける。
 しかし、幾つかの肝心の観測器が、あまりに過酷な厳寒の富士の環境に耐えられず、壊れた。
 心に打撃を受けた夫は、ついに重い高山病で起き上がれなくなってしまった。
 その夫に代わって、千代子は観測所の主役を担っていくのである。
 「(千代子は富士山頂での)冬期連続観測の記録の鎖に、彼女の手で一環一環を加えて行くことに、どれほどの意味があるかも充分知っていた。
 すべては未知の記録への挑戦であった」と。
 まさに、一歩一歩、一日一日が、まだ誰も成しえなかった、高層気象観測の記録である。
 それは、一人の女性が命がけの執念で切り開いていった魂の尊厳の記録ともなった。
 この間、家に残した最愛の娘を病気で失うという悲劇も重なった。その娘の死を、彼女は後に聞いたのだ。
 あまりのショックに、深い悲しみの淵に沈んだ。
 しかし、自分が生き抜くことができたのも、わが子が自分に命をくれたからだ。そう受け止めて、亡き娘とともに使命を果たすことを決意し、立ち上がっていったのである。
     ◇
 野中夫妻は、観測が命に及ぶ危険な状況であると知った政府の命令や、学識者や協力者の説得によって、越年の観測の中断を余儀なくされた(12月22日)。
 この厳寒の富士山頂での夫妻の挑戦は、日本、いな、世界の気象観測の歴史に燦然と光る偉業となったのである。
       (下に続く)

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