2008年8月31日付 聖教新聞 信越代表者会議での名誉会長のスピーチ 下
2008年8月31日付 聖教新聞
信越代表者会議での名誉会長のスピーチ 下
『今に見よ!』我は厳窟王
軍部と戦った牧口先生は殉教 戸田先生の勝利劇
同志に幸あれ 三世に福あれ
一、学問であれ、文学であれ、スポーツであれ、見事な花を咲かせゆく、大いなる力は「師匠」である。
ドイツの有名な出版人であるコッタは、文豪ゲーテに伝えた。
「敬愛する導師よ、あなたの存在は、あらゆる面にわたって、さまざまな仕方で、あなたの友人たち、あなたの同時代人たちに良い影響を及ぼしております」(ジークフリート・ウンゼル卜者、西山力也ほか訳『ゲーテと出版者』法政大学出版局)
よき師の存在は、社会の針路を、平和へ、幸福へと照らし出す。
コッタは、ゲーテの全集を出版した。
「私は良質の書籍以外のものは出版しないでしょう」(同)とコツタは述べる。活字文化を担う自負と誇りがあふれていた。
光栄なことに、私の全集は、全150巻となる予定である。
〈『池田大作全集』が完結すると、ゲーテ全集143巻(ワイマール版)を超える〉
これこそ、戦後の最大の苦境のなかで、わが師・戸田先生が、万般の学問の核心を打ち込んでくださったおかげにほかならない。
書くことは戦いだ。
広布のために東奔西走し、私の執筆は深夜に及んだ。
とくに小説『人間革命』『新・人間革命』など、日々の連載は大変である。疲れて筆が動かず、妻に口述筆記してもらうことも、たびたびであった。
人知れぬペンの闘争を、夫婦して続けてきた。戸田先生が生きておられたならば、「頑張ったな」と、ほめてくださったであろう。
その原稿料も、印税も、広布のため、教育のために捧げてきた。
妻も、「それが正しいと思います。戸田先生、牧口先生も、喜んでくださるでしょう。何より学会員が喜ぶと思います」と凛として賛成してくれた。
私事であるが、未来の指導者のために語り残しておきたい。
勝利の軌道を!
一、イギリスの歴史家カーライルは、師と仰ぎ、精神の父と敬うゲーテに対して、こう書き送っている。
「もし私が暗黒から救われて、或る程度の光明に達したとすれば、また私が自分自身について、私の義務や使命についていくらか知るところがあるとすれば、それは他のいかなる事情よりも、あな
たの作品の研究のお蔭なのです。
私は、弟子が師に対する感情を以って、そればかりでなく息子が精神的父親に対する感情を以って、常に感謝と畏敬とを、誰によりも多くあなたに捧げねばなりません」(山崎八郎訳『ゲーテ=カーライル往復書簡』岩波文庫)
師匠がいるから、勝利の軌道を歩める。
師匠がいるから、増上慢を打ち破れる。
師匠がいるから、人間革命できるのだ。
一、仏法の師匠は、正しい法を教え、弘める。師弟の破壌は、仏法の破壊だ。
障魔は、卑劣にも、師に襲いかかる。その師を護らずして、何の弟子か。
これが根幹だ。これが主であり、他の問題は従なのだ。魂の支柱が腐れば、正義の城は崩れてしまう。
時流がどうあれ、社会がどう動こうと、師弟という柱は、ゆるがせにしてはならない。
三代にわたる創価の師弟の原点は、信越出身の牧口先生の殉教である。
軍国主義に立ち向かわれた牧口先生の獄中闘争の一端を、きょうは語っておきたい。
獄中の牧口先生
三障四魔が紛起するのは当然です
「カントの哲学を精読している」
一、牧口先生は、昭和18年(1943年)7月6日、伊豆・下田で連行され、翌19年の11月18日の午前6時過ぎ、巣鴨の東京拘置所で逝去された。享年73歳であった。
過酷な取り調べと劣悪な獄中生活が重なるなか、先生は、老衰と栄養失調で病んでおられた。
また同年8月31日には、徴兵されていた三男・洋三さんが、中国で病死(享年37歳)。
牧口先生は家族からの手紙(10月5日付)で、洋三さんの逝去を知った。
そして、獄中からの書簡(同13日付)を、クマ夫人と洋三さんの夫人である貞子さんあてに送られた。
そこには、「洋三戦死の御文、十一日に(中略)拝見。びっくりしたよ。がっかりもしたよ」(現代表記に改めた)と心情が綴られていた。
牧口先生は続けて、こうも書かれている。
「カントの哲学を精読している。
百年前、及びその後の学者どもが、望んで、手を着けない『価値論』を私が著し、しかも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。
これゆえ、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」(同)
これが、先生の最後の書簡となった。
一、当局から病監に移ることを勧められた牧口先生は、11月17日、衣服と頭髪をととのえて、病監へ向かわれた。
途中、足もとがもつれ、転ばれるが、最後まで一人で歩かれる。
ベッドに身を横たえると、やがて昏睡状態に陥った。
この日、当局は、牧口先生の死期が迫っていることを、先生の自宅に電報で知らせる。夜には、貞子さんが病監に駆けつけた。
しかしその時、先生は、すでに昏睡状態であった。
枕の下には、投獄中、家族より送られた手紙が置かれていたという。
そして翌朝、大変に安らかな相で、霊山に旅立たれたのである。
先生のご遺体は、貞子さんの実家の番頭に背負われ、目白の自宅に運ばれた。
クマ夫人は、孫の洋子さんとともに、疎開先の茨城県古河から、帰京される。
ご遺体と対面し、「やっと家に帰ってきたんですよ」と語りかけた。
無実の投獄から、じつに、1年4カ月後のことであった。
〈翌々日の20日、10人前後の親族・知人が出席し、自宅でひっそりと葬儀が営まれた〉
冷酷なる宗門
一、牧口先生の殉教に対して、宗門は、あろうことか、「獄死」を理由に、先生に「大居士」の戒名を贈ることを拒否した。
葬儀にも、所化小僧一人しか、よこさなかったのである。
戸田先生は逝去後、「大居士」が贈られたが、牧口先生はその後も、「居士」のままであった。
ようやく、1990年(平成2年)4月、戸田先生の33回忌の折、牧口先生に「大居士」が贈られた。
〈貞子さんは「これも池田先生の尽力のおかげです」と感謝を語っている〉
かえすがえすも、無慈悲で冷酷な宗門であった。供養を取るだけ取り、恩知らずにも」広宣流布を破壊する謀略に動いたのも、この年のことである。
戒名は、成仏の本義とは無関係であるが、邪宗門の実態を歴史に留めるため、あえて紹介させていただいた。
師のために!
一、難を受け、ともに牢獄に赴いた戸田先生が、牧口先生の獄死を知ったのは、年明け早々のことであった。
先生は、当時を振り返って言われていた。
「ちょうど、二十年一月八日、忘れもしません、その日に初めて呼び出され、予審判事に会ったとたんに、『牧口は死んだよ』といわれました」
「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」と。
「巌窟王」──この信念で先生は、出獄後、師の仇討ちを誓い、学会の再建に、一人立ち上がられた。
世界平和という牧口先生の壮大な夢を実現するため、事業も始められた。
しかし、しばらくして戸田先生の事業は挫折。その結果、多額の借金を抱え、多くの人が、先生を誹謗しながら去っていった。
その先生を支えるため、私は自らを犠牲にして、働きに働いた。
冬なのに、オーバーもなかった。そんな私を、奇異な目で見る人間もいた。
靴がなくて、げたを履き、「カランコロン」と音を鳴らしながら歩いたこともある。
しかし私は、気にもかけなかった。師のために、悠然と胸を張って戦った。
ある時は、ご自宅にうかがい、夜通し先生をお護り申し上げた。
それほどまでに、私は、何もかも、先生に捧げたのである。
経済的にも、社会的にも、名誉の上でも、先生を護り、だれも想像しなかった世界的な学会を築き上げた。
これが、創価の師弟の勝利劇である。
「師のために」──この心がなくなれば、仏法者ではない。この峻厳なる精神を、学会の永遠の伝統にしていかねばならない。
祈って行動だ!諸天よ厳護せよ
一、結びに、敬愛する信越の皆さんに、和歌を贈りたい。
偉大なる
おお信越の
同志らは
日本一なる
信仰王者か
師弟不二
深く知りたる
信越の
同志に幸あれ
三世に福あれ
そして、「信越の同志 万歳! 信越の広宣流布 万歳! 諸天善神 厳護せよ!」と申し上げ、私の入信記念日のスピーチとさせていただきたい。
我らは、世界一の平和の大事業を担っているのだ。これほどの誉れはない。
不惜身命で戦おう!
折伏精神で語ろう!
これこそ日蓮大聖人の魂であるからだ。
私も、同志の皆さんの祈りのおかげで、ますます健康である。広布へ戦えば、元気になる。一人が立てば、必ず幸福の波動が広がる。
若々しく進もう!
すべてに勝とう!
勝利を祈って行動しよう!(大拍手)
(2008・8・24)
信越代表者会議での名誉会長のスピーチ 下〔完〕
ブログ はればれさんからのコピーです。
信越代表者会議での名誉会長のスピーチ 下
『今に見よ!』我は厳窟王
軍部と戦った牧口先生は殉教 戸田先生の勝利劇
同志に幸あれ 三世に福あれ
一、学問であれ、文学であれ、スポーツであれ、見事な花を咲かせゆく、大いなる力は「師匠」である。
ドイツの有名な出版人であるコッタは、文豪ゲーテに伝えた。
「敬愛する導師よ、あなたの存在は、あらゆる面にわたって、さまざまな仕方で、あなたの友人たち、あなたの同時代人たちに良い影響を及ぼしております」(ジークフリート・ウンゼル卜者、西山力也ほか訳『ゲーテと出版者』法政大学出版局)
よき師の存在は、社会の針路を、平和へ、幸福へと照らし出す。
コッタは、ゲーテの全集を出版した。
「私は良質の書籍以外のものは出版しないでしょう」(同)とコツタは述べる。活字文化を担う自負と誇りがあふれていた。
光栄なことに、私の全集は、全150巻となる予定である。
〈『池田大作全集』が完結すると、ゲーテ全集143巻(ワイマール版)を超える〉
これこそ、戦後の最大の苦境のなかで、わが師・戸田先生が、万般の学問の核心を打ち込んでくださったおかげにほかならない。
書くことは戦いだ。
広布のために東奔西走し、私の執筆は深夜に及んだ。
とくに小説『人間革命』『新・人間革命』など、日々の連載は大変である。疲れて筆が動かず、妻に口述筆記してもらうことも、たびたびであった。
人知れぬペンの闘争を、夫婦して続けてきた。戸田先生が生きておられたならば、「頑張ったな」と、ほめてくださったであろう。
その原稿料も、印税も、広布のため、教育のために捧げてきた。
妻も、「それが正しいと思います。戸田先生、牧口先生も、喜んでくださるでしょう。何より学会員が喜ぶと思います」と凛として賛成してくれた。
私事であるが、未来の指導者のために語り残しておきたい。
勝利の軌道を!
一、イギリスの歴史家カーライルは、師と仰ぎ、精神の父と敬うゲーテに対して、こう書き送っている。
「もし私が暗黒から救われて、或る程度の光明に達したとすれば、また私が自分自身について、私の義務や使命についていくらか知るところがあるとすれば、それは他のいかなる事情よりも、あな
たの作品の研究のお蔭なのです。
私は、弟子が師に対する感情を以って、そればかりでなく息子が精神的父親に対する感情を以って、常に感謝と畏敬とを、誰によりも多くあなたに捧げねばなりません」(山崎八郎訳『ゲーテ=カーライル往復書簡』岩波文庫)
師匠がいるから、勝利の軌道を歩める。
師匠がいるから、増上慢を打ち破れる。
師匠がいるから、人間革命できるのだ。
一、仏法の師匠は、正しい法を教え、弘める。師弟の破壌は、仏法の破壊だ。
障魔は、卑劣にも、師に襲いかかる。その師を護らずして、何の弟子か。
これが根幹だ。これが主であり、他の問題は従なのだ。魂の支柱が腐れば、正義の城は崩れてしまう。
時流がどうあれ、社会がどう動こうと、師弟という柱は、ゆるがせにしてはならない。
三代にわたる創価の師弟の原点は、信越出身の牧口先生の殉教である。
軍国主義に立ち向かわれた牧口先生の獄中闘争の一端を、きょうは語っておきたい。
獄中の牧口先生
三障四魔が紛起するのは当然です
「カントの哲学を精読している」
一、牧口先生は、昭和18年(1943年)7月6日、伊豆・下田で連行され、翌19年の11月18日の午前6時過ぎ、巣鴨の東京拘置所で逝去された。享年73歳であった。
過酷な取り調べと劣悪な獄中生活が重なるなか、先生は、老衰と栄養失調で病んでおられた。
また同年8月31日には、徴兵されていた三男・洋三さんが、中国で病死(享年37歳)。
牧口先生は家族からの手紙(10月5日付)で、洋三さんの逝去を知った。
そして、獄中からの書簡(同13日付)を、クマ夫人と洋三さんの夫人である貞子さんあてに送られた。
そこには、「洋三戦死の御文、十一日に(中略)拝見。びっくりしたよ。がっかりもしたよ」(現代表記に改めた)と心情が綴られていた。
牧口先生は続けて、こうも書かれている。
「カントの哲学を精読している。
百年前、及びその後の学者どもが、望んで、手を着けない『価値論』を私が著し、しかも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。
これゆえ、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」(同)
これが、先生の最後の書簡となった。
一、当局から病監に移ることを勧められた牧口先生は、11月17日、衣服と頭髪をととのえて、病監へ向かわれた。
途中、足もとがもつれ、転ばれるが、最後まで一人で歩かれる。
ベッドに身を横たえると、やがて昏睡状態に陥った。
この日、当局は、牧口先生の死期が迫っていることを、先生の自宅に電報で知らせる。夜には、貞子さんが病監に駆けつけた。
しかしその時、先生は、すでに昏睡状態であった。
枕の下には、投獄中、家族より送られた手紙が置かれていたという。
そして翌朝、大変に安らかな相で、霊山に旅立たれたのである。
先生のご遺体は、貞子さんの実家の番頭に背負われ、目白の自宅に運ばれた。
クマ夫人は、孫の洋子さんとともに、疎開先の茨城県古河から、帰京される。
ご遺体と対面し、「やっと家に帰ってきたんですよ」と語りかけた。
無実の投獄から、じつに、1年4カ月後のことであった。
〈翌々日の20日、10人前後の親族・知人が出席し、自宅でひっそりと葬儀が営まれた〉
冷酷なる宗門
一、牧口先生の殉教に対して、宗門は、あろうことか、「獄死」を理由に、先生に「大居士」の戒名を贈ることを拒否した。
葬儀にも、所化小僧一人しか、よこさなかったのである。
戸田先生は逝去後、「大居士」が贈られたが、牧口先生はその後も、「居士」のままであった。
ようやく、1990年(平成2年)4月、戸田先生の33回忌の折、牧口先生に「大居士」が贈られた。
〈貞子さんは「これも池田先生の尽力のおかげです」と感謝を語っている〉
かえすがえすも、無慈悲で冷酷な宗門であった。供養を取るだけ取り、恩知らずにも」広宣流布を破壊する謀略に動いたのも、この年のことである。
戒名は、成仏の本義とは無関係であるが、邪宗門の実態を歴史に留めるため、あえて紹介させていただいた。
師のために!
一、難を受け、ともに牢獄に赴いた戸田先生が、牧口先生の獄死を知ったのは、年明け早々のことであった。
先生は、当時を振り返って言われていた。
「ちょうど、二十年一月八日、忘れもしません、その日に初めて呼び出され、予審判事に会ったとたんに、『牧口は死んだよ』といわれました」
「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」と。
「巌窟王」──この信念で先生は、出獄後、師の仇討ちを誓い、学会の再建に、一人立ち上がられた。
世界平和という牧口先生の壮大な夢を実現するため、事業も始められた。
しかし、しばらくして戸田先生の事業は挫折。その結果、多額の借金を抱え、多くの人が、先生を誹謗しながら去っていった。
その先生を支えるため、私は自らを犠牲にして、働きに働いた。
冬なのに、オーバーもなかった。そんな私を、奇異な目で見る人間もいた。
靴がなくて、げたを履き、「カランコロン」と音を鳴らしながら歩いたこともある。
しかし私は、気にもかけなかった。師のために、悠然と胸を張って戦った。
ある時は、ご自宅にうかがい、夜通し先生をお護り申し上げた。
それほどまでに、私は、何もかも、先生に捧げたのである。
経済的にも、社会的にも、名誉の上でも、先生を護り、だれも想像しなかった世界的な学会を築き上げた。
これが、創価の師弟の勝利劇である。
「師のために」──この心がなくなれば、仏法者ではない。この峻厳なる精神を、学会の永遠の伝統にしていかねばならない。
祈って行動だ!諸天よ厳護せよ
一、結びに、敬愛する信越の皆さんに、和歌を贈りたい。
偉大なる
おお信越の
同志らは
日本一なる
信仰王者か
師弟不二
深く知りたる
信越の
同志に幸あれ
三世に福あれ
そして、「信越の同志 万歳! 信越の広宣流布 万歳! 諸天善神 厳護せよ!」と申し上げ、私の入信記念日のスピーチとさせていただきたい。
我らは、世界一の平和の大事業を担っているのだ。これほどの誉れはない。
不惜身命で戦おう!
折伏精神で語ろう!
これこそ日蓮大聖人の魂であるからだ。
私も、同志の皆さんの祈りのおかげで、ますます健康である。広布へ戦えば、元気になる。一人が立てば、必ず幸福の波動が広がる。
若々しく進もう!
すべてに勝とう!
勝利を祈って行動しよう!(大拍手)
(2008・8・24)
信越代表者会議での名誉会長のスピーチ 下〔完〕
ブログ はればれさんからのコピーです。