【第8回】 仏法は勝負 (2018.8.14)

 
―― 生きること自体が戦い
 
連載「世界宗教の仏法を学ぶ」では、池田先生の指導や励ましを教学のテーマ別に掲載。併せて、それらに関する仏法用語や日蓮大聖人の御書などを紹介します。
第8回のテーマは「仏法は勝負」です。
 
小説「新・人間革命」第8巻「布陣」の章
 
【あらすじ】1963年(昭和38年)6月、山本伸一会長は東京第一本部の新出発の幹部会に出席。広宣流布の活動における、「勝利」の重要性について語っていく。
                                                                
あいさつに立った伸一は、ユーモアを込めて語った。
「このたび、理事長が東京第一本部の本部長になりましたが、ほかの本部の本部長になった副理事長たちは、理事長の本部を打ち負かしてやろうという魂胆なんです。
私は、立場上、どこかの本部だけを応援するわけにはいきませんが、今日は、第一本部員のつもりで、この幹部会に出席しています。
したがいまして、本日だけは、東京第一本部こそ、東京の、日本の、世界の広布のトップランナーたれと申し上げたいと思います。
そして、ひとたび戦いを起こすならば、必ず勝つという伝統をつくっていただきたいのであります。
何ごとも勝てば嬉しい。活動の勝利は、わが生命に躍動と歓喜をもたらし、希望と活力の源泉となる。
しかし、負ければ歓喜もなくなり、元気も出ません」
山本伸一は、広宣流布の活動において、なぜ、勝利を収めなければならないかを、今度は、個人に即して語っていった。
折伏にせよ、あるいは会合の結集にせよ、勝とうと思えば、目標を立て、決意を定め、真剣に唱題に励むことから始めなければならない。
さらに、知恵を絞って、勇気をもって挑戦し、粘り強く行動していく以外にありません。
そして、一つ一つの課題に勝利していくならば、それは、大きな功徳、福運となっていきます。
また、何よりも、それが人生に勝つための方程式を習得していくことになる。
さらに、活動を通してつかんだ信仰への大確信は、人生のいかなる困難をも切り開いていく力となります。
御書には『仏法と申すは勝負をさきとし』(1165ページ)と仰せです。
それは、広宣流布とは、第六天の魔王という生命破壊の魔性との戦いであり、さらには人間が生きるということ自体が、人生そのものが戦いであるからです。
人間の幸福といっても、自分の臆病や怠惰などの弱さと戦い、勝つことから始まります。
人間革命とは、自己自身に勝利していくことであり、そのための、いわば道場が、学会活動の場であるともいえます。
私は、その時々の折伏の成果など、問題にしておりません。
大事なことは、皆さんが強盛な信心に励み、大功徳を受け、生活も豊かになり、幸福に満ち満ちた悠々たる大境涯になっていくことです。
そのための布教であり、学会の活動であることを、銘記していただきたいのであります」
 
理解を深めるために
 
●苦難も「信心の眼」で捉える
日蓮大聖人は、「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(御書1165ページ)と仰せです。
このお手紙を頂いた四条金吾は当時、極楽寺良観等の画策によって、主君の江間氏から法華経を捨てるという起請文(誓約書)を書くよう迫られていました。
しかしながら、金吾はこれを敢然と拒否し、不退転の決意を大聖人に報告。その返信の中に認められたのが、冒頭の一節です。
主従関係を軸とする当時の中世武家社会では、主君による「賞罰」が武士たちの命運を決する根本であったことから、王法(世法)においては「賞罰を本とせり」と仰せられていると拝されます。
しかし、大聖人は、あくまで仏法においては勝負こそが第一であると指摘されています。
これは、主君による弾圧という苦難を世間の表面的な次元から「賞罰」として捉えるのではなく、仏法の眼、信心の眼で仏と魔との「勝負」として捉え、“断じて負けてはならない”と励まされているのです。
池田先生は、つづられています。
「『仏法は勝負』と強調されているのは、いかなる困難にも立ち向かっていく強靱な心を持て、ということです。
臆病な心では、胸中の魔にも、社会の魔にも勝てないからです。『臆病にては叶うべからず』(御書1193ページ)です」
 
日蓮大聖人の御書から 「四条金吾殿御返事(世雄御書)」について
 
●道理の力で「主に勝つ」
四条金吾殿御返事(世雄御書)」では、仏法は勝負であることを示し、仏とは最も勝れた法を持ち、世の中で最も勝れた「世雄」であると仰せです。
その上で日蓮大聖人は、「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(御書1169ページ)と仰せです。
これは法華経への信心を根本に、正直に誠実に生きれば、道理としてあらゆるものに勝利できることを教えられていると拝することができます。
具体的に「主に勝つ」とは、仏法の道理の力は、賞罰によって家来を支配する力をもった主君にも勝つことができるとの意味です。
法華経を捨てよ」と主君が四条金吾に迫ったことは、道理に反する不当な仕打ちでした。
しかし、大聖人は本抄で金吾に対して、こうした事態に直面しても、感情に流されず、粘り強く誠実な振る舞いに徹していくのが信仰者の生き方であることを教えられています。
別の御書では、佐渡流罪の時、他の門下が所領を取られたりする中で金吾は主君から守られてきたと諭し、その恩を忘れ、道理から外れて主君を恨んでは、諸天善神も金吾を守らなくなると戒められています。
実際、金吾は大聖人の御指導の通りに、信心根本に振る舞い、主君からの信頼を回復して、新たな所領を賜るという勝利の実証を示していったのです。
 
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池田先生の指導・励ましから