2013-05-01から1ヶ月間の記事一覧
大鷲は飛翔した! 力強く羽音を響かせ、光り輝く勝利の空へ。 高く、高く、また高く……。 おお! 戦う心に歓喜はたぎる。 あの頂を越えれば、新しき明日が待っている。新しき世界が広がっている。 さあ、進もう! 幸の行進を始めよう! 広布第二章の「支部制…
山本伸一は、参加者に笑顔を向けると、快活に呼びかけた。 「勝ちましょう! 勇気を奮い起こして自分自身に挑み勝つんです。それが、人生の、ご家庭の、広宣流布の勝利になります。 前進しましょう! 私と一緒に、誇らかな勝利のドラマをつくりましょう! 幸…
真の仏法者とは、自らが本来、仏であると確信している人である。一切衆生が仏であると信じる人である。 仏法で説く、生命の因果の法則を、わが信念としている人である。 それゆえに何ものをも恐れず、それゆえに人を敬い、それゆえに喜々として労苦を担い、…
山本伸一は、広宣流布の勇将である、支部長、支部婦人部長、そして、青年部の各部部長には、常に自分と同じ心で、“折伏精神”をたぎらせ、あらゆる活動の先陣を切ってほしかったのである。 彼は、期待と慈愛を込めて、話を続けた。 「さきほど、支部婦人部長…
山本伸一は、参加者一人ひとりに視線を注ぎながら話を続けた。 「各地域にあっても、異体同心の組織が築かれ、〝信心の根〟が深く張り巡らされていくならば、三障四魔という炎に焼かれることがあっても、また必ず、若草山のように、青々と蘇生していくことは…
支部長の西坂勝雄は、最後に、ひときわ力を込めて訴えた。 「一昨年、山本先生は、『恐るるな 功徳したたる 妙法の 法旗高らか 奈良は厳たり』との和歌を、奈良の同志に贈ってくださいました。 私は、この和歌のごとく、力の限り前進してまいります!」 真剣…
支部婦人部長を代表しての丸沢邦代の抱負に、大きな共感の拍手が鳴り響いた。 山本伸一は、草創の支部幹部の精神は、広布第二章を担い立つ勇将に、確かに受け継がれようとしていることが感じられ、嬉しくてならなかった。 彼は、丸沢に、祝福の記念の品を贈…
丸沢邦代は生き生きとした表情で語った。 「私は、山紫水明のこの山里が大好きです。わが地域に功徳の花が爛漫と咲き薫るよう、はつらつと単車に乗って駆け巡っています」 山本伸一は、拍手を送りながら言った。 「交通事故を起こさないようにね」 彼女は、…
子どものいない有田幸二郎・信子夫妻は、男女青年部員や支部の子どもたちを、わが子と思って接してきた。 有田の家は、支部のさまざまな活動の拠点になっていた。彼らは、青年たちに言うのであった。 「ここを、わが家だと思って、自由に使いなさい」 また、…
有田幸二郎から、自宅の塀に罵倒する落書きをされたという報告を受けた山本伸一は、即座に励ましの手紙を書いた。 「このたびは、三障四魔の嵐、東京で心配している。御金言通りなれば、今更、驚くことはない。あくまで世間の事に、ことよせて、難があるので…
有田幸二郎・信子夫妻は、まさに二人三脚で、広宣流布の険路を突き進んでいった。 何時間も、電車やバスに揺られ、同志の指導、激励に行くことも珍しくなかった。奈良県南部の十津川や、下北山にも足を運んだ。 帰途、山道が土砂で閉ざされ、バスが運行でき…
有田幸二郎は、座談会場で横たわり、妻の信子の話を聞いていた。 〝本来ならば、班長として、自分が先頭に立って訴えなければならないのだ〟と思うと、不甲斐なかった。 歯ぎしりする思いであった。彼は、深く心に誓った。 〝きっと、この病を治し、長生きし…
座談会場に到着しても、班長の有田幸二郎の神経痛は続いていた。 顔面は蒼白であった。彼は、トイレに入って休み、なかなか出てこなかった。痛みに呻く声が聞こえた。 班担当員の信子は、“こうなったら、私が頑張ろう!”と腹をくくった。 トイレにいる夫に言…
有田幸二郎は、普通の食事ができるようになった──その功徳の実感を、本人も、妻の信子も、人に語らずにはいられなかった。 難しい理屈は何もわからなかった。ただ、「この南無妙法蓮華経の御本尊さん、拝まなあきまへんで!」と言って歩いた。 弘教の闘士が…
式次第は、表彰に移った。山本伸一が見守るなか、奈良支部の初代支部長・婦人部長の有田幸二郎・信子夫妻に、それぞれ、感謝の花束が贈られた。 賞讃の大拍手が夫妻を包んだ。二人は、感激に目を潤ませた。 有田夫妻は、一九五五年(昭和三十年)八月の入会…
一月二十五日の夕刻、明日香文化会館一階の大広間には、奈良県各地から代表幹部が集って来た。真冬であるが、場内は熱気にあふれていた。 会場後ろのドアが開いた。 「皆さん、こんばんは!」 山本伸一が姿を現すと、会場を揺るがさんばかりの大拍手が轟いた…
山本伸一は、明日香文化会館の設計段階から何度も報告を受け、相談にものってきた。 彼は、日本を代表する仏教建築も多く、他教団の本部等もある奈良県の中心会館は、学会員が「これが私たちの法城です!」と、誇らかに胸を張れるものにしなければならないと…
一月二十三日午後、山本伸一は八日間にわたる四国指導を終え、関西に向かった。 彼は、四国研修道場を出発する間際まで、愛媛から研修会に参加していた壮年・婦人や、役員として諸行事の運営を支えてくれた青年たちと、記念のカメラに納まるなどして、激励を…
山本伸一と方面・県幹部との懇談が終わった時には、午後十時を回っていた。 伸一は、皆に提案した。 「壮年部と男子部の方面幹部、県幹部の方と追善の勤行をしましょう。源平の屋島の戦いで亡くなった人たちを追善したいんです。 平家も、源氏も、亡くなった…
活動の進め方についての山本伸一の話は、極めて基本的な事柄であった。その基本があいまいになることから、活動は空転していく。 だからこそ彼は、基本を徹底して確認しておこうと思ったのである。 「各大ブロックでは、全幹部が集っての協議会と、全会員が…
二十二日の夕刻、山本伸一は、会館に勤務する職員と面談したあと、四国研修道場で方面・県幹部との懇談会をもった。 「聞きたいことは、なんでも聞いてください。私は、四国が大発展するための、あらゆる布石をしておきたいんです。 今回も、可能ならば、全…
近年、全国各地で医師である学会員の活躍が目立っていた。 山本伸一は、二十一世紀を「生命の世紀」とするために、人間の生命に直接関わる医師など医療関係者の育成に、ことのほか力を注いできたのだ。 医学の進歩は急速であり、日進月歩の勢いである。しか…
溝渕義弘の経営する医院は、深夜でも急患を受け入れる態勢を整えた。地域の人びとの命を守りたいとの思いからであった。 その激務のなかで彼は、四国ドクター部長、香川県壮年部長として、学会活動にも全力を注いできた。 彼の「健康セミナー」は定評があり…
溝渕義弘と静恵は、真剣に信仰に励むようになった。すると、医師仲間や親戚などが、信心に反対し始めた。 まだ、学会への誤解と偏見が根強い時代である。 なかでも静恵の母親は、「恥ずかしくて外も歩けないから、やめてちょうだい」と、涙ながらに訴えるの…