名誉会長「霊鷲山」と「彼岸」を語る〔中〕2006-9-17

日蓮仏法は毎日が彼岸



 一、ともあれ、本来、仏法における「彼岸」の本義は、どこまでも「成仏の境涯」、また「成仏に到る実践」にある。

 先祖供養とは関係がなかったといってよい。大聖人の御書でも、「彼岸」という言葉を、先祖供養の意義で用いられている個所は、一つもないからだ。

 そもそも、春・秋の「彼岸会」は、仏教本来の伝統ではない。あくまでも、日本独特の風習である。その定着には、浄土教の影響が強かったと推察されている。

 つまり、春分秋分の日は、太陽が真西に沈む。その夕日を見ながら西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)を思う観想法(かんそうほう)が、浄土教の中で行われていた。それが、古くからの先祖供養や農耕の儀式と結びつき、「彼岸会」として定着していったという説がある。

 とくに、彼岸に合わせて墓参りする習慣などは、江戸時代のいわゆる葬式仏教のもとで根付いたものと考えられている。

 日蓮仏法では、「常彼岸(じょうひがん)」、すなわち毎日の勤行・唱題が、そのまま彼岸会の実践である。自らが日々、妙法を行じゆく功徳を、先祖や故人に「廻)めぐら)(回)し向ける」のが、真の回向であり追善であると説いているのだ。

 そのうえで、春、秋の彼岸を一つの機会として、故人への感謝を込め、追善を行うことも、「随方毘尼(ずいほうびに)」の法理の上から、当然、意義のあることといってよいだろう。〈「随方毘尼」とは、仏法の本義に違わない限り、各地域や時代の風習に随うべきであるとする考え〉

 善き同志とともに会館や墓地公園などに集い、清々(すがすが)しく勤行・唱題し、故人の志を継いで広宣流布に進む決意を深めゆくことは、大聖人の御心に最も適った追善であることを確認しておきたいのだ。

 そこに、坊主が介在する必要など、元来、まったくないのである。



◆僧による法要は葬式仏教の産物



 一、「僧は葬送儀礼には関わらない」というのが、釈尊の遺言であり、仏教の伝統であった。

 僧は、葬儀などの儀式に関わらないで、あくまでも自身の修行に専念し、自己完成を目指すべき立場であった。

 ところが日本では、室町時代を経て、檀家制度が確立される江戸時代になると、いわゆる「葬式仏教」へと堕していった。

 寺院は、仏教本来の出家の精神を失い、経済的な支えを葬送儀式に見いだし、巧妙に利用していくようになっていったのである。

 さまざまな法要も、仏教の本義に由来するものではなく、他の宗教や思想を取り入れたものであることが、歴史研究で明らかにされている。

 例えば、なじみの深い「四十九日の法要」も遡(さかのぼ)れば、インドのバラモン教に由来するという。

 百箇日・一周忌・三回忌の法要は、中国の儒教を淵源として、平安時代までには日本でも行われるようになった。

 さらに時代を経て、法要が寺院にとって重要な財源となるにつれ、七、十三、十七、二十五、五十、六十回忌等々と、次々と回忌法要がつくり出されていったのである。

 大聖人の御在世には既に、四十九日をはじめ、回忌法要の風習は広く社会に浸透していた。 大聖人の門下も、亡くなった家族の四十九日や回忌法要に際し、供養をお届けしてきたという記録がある。

 大聖人は、その孝養の真心を讃えられながら、御自身も追善供養してくださっている。

 しかし、大聖人が、そうした法要を積極的に行うよう奨励されることはなかった。

 先ほども申し上げたように、「彼岸会」に関する記述も、御書には全くないのである。

 日蓮仏法には、儀式や形式に縛られる窮屈(きゅうくつ)さや偏狭(へんきょう)さはない。

 心を広々とさせ、伸び伸びと大宇宙の運行のリズムに合致しながら、意義深き人生の四季を飾り、福徳の生命の年輪を刻みゆく正道が示されているのである。

 「彼岸」においても、大事なポイントは、一体、何か。

 仏法の本義に立ち返るならば、「成仏の境涯(彼岸)」へ向かって、自分自身も、そして一家眷属(けんぞく)も、より希望に燃えて前進していくことこそが、眼目(がんもく)なのである。



◆「形骸のみあって真の仏法はない」



 一、戸田先生は、彼岸に関連して、正しい仏法のあり方を、さまざまに語り残してくださっている。

 そのまま、ご紹介させていただきたい。

 「彼岸といいお盆といい寺に詣でる者多く、あたかも日本は仏教隆盛の国のようにみえる。 しかるにその真実は仏法の形骸のみあって真の仏法はない」

 そして先生は、日々の学会活動にこそ、「彼岸に到る」道があると教えられた。日々の倦(う)まぬ実践の積み重ねだけが、自身を幸福の彼岸に運んでくれることを強調しておられた。

 “全同志を、幸福の彼岸へと導きたい! ” ── これが、戸田先生の叫びであった。また、創価の三代の心である。

 反対に、「葬式仏教」や腐敗堕落の坊主に対して、先生は、烈々たる舌鋒(ぜっぽう)であられた。

 「先祖伝来の既成宗教は法力も実践力もことごとく失ってただたんに葬式と法事によって、僧侶という非生産階級が細々と生活しているにすぎない。まことに日蓮大聖人が『世(よ)皆(みな)正(しょう)に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す』と仰せの世相そのものであった」

 「すべてが釈尊の意図と相反した原因は、まず従来の僧侶が形式に流れて実質をうしない、大衆の生活を考えずして、自己の保身にこれ努めた結果にほかならない。

 さらに信者は、自分の属する宗派が何であるかを、きわめようともせず、生活と関係のない寺院に、多額の布施や寄付を徴収されても、これを疑おうとせず、ただ先祖伝来を口実にして、そのお寺をまもってきた」

 「速(すみ)やかにかかる寺院、かかる僧侶が一掃せられて、真に世界に誇るべき宗教のあらわれんことを望むものである」



 ≪戸田先生≫ 「食わんがため」のみの僧が世に充満する



◆「私腹を肥やす坊主は天魔だ」



 一、また、戸田先生は、信心なき宗門の坊主に対しても容赦なかった。

 こう厳しく言い切っておられた。

 「坊主は、人々を救うためにある存在だ。

 それを、御供養といって、信者を金儲けの道具にし、何の贅沢に使ったのか。何の遊戯雑談(ゆげぞうだん)に使ったのか。仏法の本義から根本的に誤った、腐った精神の奴らである。あまりにも情けない奴だ」

 「多年(たねん)、寺を私有化し、いたずらに私腹のみを肥やして、貪欲(どんよく)の醜躯(しゅうく)を法衣(ほうえ)で偽装。僧形(そうぎょう)にして僧に非ず。天魔なるのみ」

 さらに、堕落した宗門の坊主の本質について、遺言のごとく語っておられた言葉が忘れられない。

 「なぜ、僧侶の堕落が始まり、腐敗していくのか。それは、広宣流布という至上の目的に生きることを忘れているからだ。この一点が狂えば、すべてが狂ってしまう。

 令法久住(りょうぼうくじゅう)を口にしながらも、多くの僧侶が考えていることは、保身であり、私利私欲をいかに満たすかだ。つまり欲望の虜(とりこ)となり、畜生の心に堕してしまっているのだ」

 先生は、こうも予見しておられた。

 「禿人(とくにん)といって、職業僧侶、すなわち生きんがため食わんがためのみの僧侶が世に充満して、少しも僧侶として世人を救う力のない時代に、国のため、世のため、法のために、不惜身命のものが現れたときには、その僧侶等は、徒党をつくって迫害するであろう」

 「学会が大発展していけば、必ず坊主たちは嫉妬し、思いもよらぬ迫害を加えてくる」

 そして「広宣流布の大闘争に、少しなりとも邪魔だてする坊主あれば、青年は決起して鉄槌(てっつい)を加えよ」と訴えられた。

 衣(ころも)の権威で尊き仏子をいじめ、広宣流布を阻(はば)む悪人は絶対に許すな!  ── これが恩師の叫びであった。



◆師弟の行学錬磨の場 「霊鷲山



 一、きょうは学会の会館の建設・整備などのために尽力されている方々も、参加しておられる。

 広宣流布の同志が集う法城が、どれほど大切な場所であるか。

 日蓮大聖人は、大きな仏道修行の道場を建立(こんりゅう)するのに貢献した富木常忍(ときじょうにん)をねぎらわれて、こう仰せである。

 「一閻浮提(いちえんぶだい)第一の法華堂を造ったと、霊山浄土に行かれた時には申し上げられるがよい」(御書995ページ、通解)

 皆さま方の功労を、私は永遠に顕彰してまいりたい(大拍手)。



 一、大聖人は、「霊山浄土」について、多くの御書の中で言及しておられる。

 「霊山」つまり「霊鷲山」は、釈尊の出世の本懐である法華経が説かれた場所とされる。

 釈尊在世の時代、インドで最大の強国であったマガダ国の首都として栄えていたのは、王舎城(現在のラージギル)である。

 この王舎城は、五つの山に囲まれた天然の要塞(ようさい)ともいえる都市であった。

 その五山のうち、東北に位置する山が霊鷲山である。

 頂上には、鷲を思わせる岩が屹立(きつりつ)している。それゆえか、「鷲の峰」(グリドゥラクータ)という意味の名があり、中国や日本では漢訳されて「霊鷲山」、あるいは音を写して「耆闍崛山(ぎしゃくっせん)」とも言われてきた。

 「霊」の字には「神聖な場所」の意が込められており、単に「霊山(りょうぜん)」とも呼ばれた。

 釈尊は、この霊鷲山で真実の大法を説き残した。

 弟子たちは、師のもとで懸命に修行し、師を厳護しながら、師の教えを生命に刻んでいった。

 つまり、霊鷲山は、“師弟共戦の行学練磨の場”であり、“師弟不二広宣流布の舞台”だったのである。



 一、私も、研究のために、この霊鷲山を訪れたことがある。

 1961年(昭和36年)2月4日。初のインド訪問の折であった。今年で45年になる。

 夕刻であったため、霊鷲山に登ることはできなかったが、麓(ふもと)まで足を運んだ。

 霊鷲山は、徒歩で30分ほどで山頂に到達する小高い山である。

 その途中には、数多くの洞窟がある。ある洞穴は、舎利弗(しゃりほつ)や阿難(あなん)らの弟子が修行し、生活したと伝えられていた。

 山頂からは、ラージギル(王舎城)の雄大な景観を一望できる。そして、その山頂には、数十人が座れるくらいの平らな場所がある。そこで、釈尊が説法をしたとされている。

 ちなみに、この霊鷲山の近くには、インドでは珍しい温泉が涌いていた。釈尊や弟子たちも、この温泉で沐浴(もくよく)をしたといわれる。