07年8月20日 聖教新聞 名誉会長 終戦62年に念う-2

07年8月20日 聖教新聞
名誉会長 終戦62年に念う-2

 洋三さんの逝去から1カ月半後の10月11日、牧口先生は獄中で、その戦死の報を受けた。
 先生は、心配をかけないようにと、ご自身の入獄を、戦地の洋三さんには知らせておられなかったのだ。
 牧口先生は、ご逝去の直前の、獄中からの手紙(10月13日付)で、最愛のわが子の戦死を嘆かれながらも、遺された家族を気遣われ、こう記されている。この葉書が、現存する執筆物では最後のものである。
 「びっくりしたよ。がっかりもしたよ。それよりも、お前たち二人(クマ夫人と洋三さんの夫人・貞子さん)はどんなにかと、案じたが、共に、立派の覚悟で、安堵している」(現代表記に改めた)
 日本の軍国主義は、国宝に等しい大教育者の牧口先生を、こともあろうに国賊扱いして投獄し、さらにご子息の命までも奪ったのである。
 先生の手紙には、続けて、こう綴られている。先生のご遺言である。
 「私も元気です。カントの哲学を精読している。
 百年前、及びその後の学者どもが、望んで、手を着けない『価値論』を私が著し、しかも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。
 これゆえ、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」(同)

 断固たる
  平和を築けや
   仏法の
  正義の大道
    我らは開かむ

 2回目となる「終戦記念日」の前夜。すなわち昭和22年の8月14日、私は戸田先生に初めてお会いした。
 この折の座談会で、戸田先生は「立正安国論」を講義されながら、叫ばれた。
 「700年前にお書きになったものが、まるで敗戦後の我々のために、お書き遺しくださったかのようだといってよい。
 個人であれ、一家であれ、一国であれ、この仏法哲理の根本に立たない限り、一切のことは始まらない」
 「一家のことを、一国のことを、さらに動乱の20世紀の世界を考えた時、私は、この世から、一切の不幸と悲惨をなくしたい。これを広宣流布という。どうだ、一緒にやるか!」
 この戸田先生の言葉を、私は信ずることができた。
 当時の私には、世の指導者を峻別する、絶対に譲れない基準があった。
 それは、軍部権力と戦ったか、どうか。この一点であった。
 ここに、確かに信じ、そして、人生を懸けても悔いのない師がおられる──仰ぐべき大樹を求め続けてきた私は、直観したのである。

 未来の世代のために生きよ

 生命の
  宝を持ちたる
   英雄は
  世界平和の
    哲人なるかな

 東西冷戦を終結させた立役者であった、ゴルバチョフソ連大統領は、私に、こう語っておられた。
 「『戦争の子ども』である私たちの世代こそ、戦争の愚かさ、非人間性、不条理性をあばいていかなくてはいけません」
 この「戦争の子ども」の世代の"長兄"の存在が私たちである。
 私たちより上の世代は、あまりにも多くの青年たちが戦場に散ってしまった。
 私も一度、差し入れをもって、茨城県霞ケ浦にある予科練(海軍飛行予科練習生)の先輩を訪ねたことがある。
 予科練といえば、当時の少年たちの憧れであった。
 しかし、その先輩は、私に真剣に語ってくれた。
 「体の弱い君は、絶対に志願などしてはならぬ。
 ここは、話で聞くような、いい所では絶対ないよ」
 私たちは、生きて戦後を迎えた。
 だからこそ、あとに続く後輩たちのために、絶対に「戦争のない世界」を、そして、「平和な世界」を、先頭に立って建設していく使命がある。責任がある。そう心に決めていた。
 その実現のための確固たる哲理と行動を、私に教えてくださったのが、師・戸田城聖先生である。

 何という傲慢 

 思えば、戦死した長兄は、一時除隊で中国大陸から戻った時、しみじみと語っていた。
 「日本軍は、ひどすぎる。あれでは中国の人たちが、あまりにも、かわいそうだ」
 21歳で出征し、29歳で戦死するまで、青春を滅茶苦茶にされた兄の遺言である。
 さらに、明治の末か大正の初めに2年間、韓国のソウル(当時、日本の支配下京城と呼ばれていた)に滞在していた父もまた、激怒して言った。
 「どうして日本人は、こんなに威張りくさって、傲慢なんだ。あんないい人たちを、苛めて、苛めて、苛め抜いて、日本はなんという国か!」と、怒りを込めて語っていた。
 終戦直前の空襲が激しかったころ、疎開先の馬込の家の近くに、撃墜された飛行機から、若きアメリカ兵がパラシュートで降りてきた。
 アメリカ兵は、人々に棒で、さんざんに殴られ、蹴られた。
 揚げ句に、目隠しをされて憲兵に連れて行かれた。
 その光景を、母に伝えると、「かわいそうに! かわいそうに! その人のお母さんは、どんなに心配していることだろうね」と言っていた。
 あの母の声は、今も心に響いて離れない。
 こうした父と兄の憤怒、そして母の祈りを胸に、私は、中国にも、韓国にも、アメリカにも、そして全世界に、平和友好と相互信頼の「金の橋」を築き上げてきた。

平和こそ全世界の母の悲願
戸田先生 この世から不幸をなくすのが広宣流布

 その行動に対して、今、世界の心ある識者の方々が、深き共感を寄せてくださっている。
 イギリスの大歴史家のトインビー博士も、私の小説『人間革命』英語版の序文で、「創価学会は驚異的な戦後の復興を遂げた──それは、経済分野における日本国民の物質的成功に匹敵する精神的偉業であった」と讃えてくださった。
 またオーストラリア最高峰の名門シドニー大学「平和・紛争研究センター」の所長を務めたスチュアート・リース名誉教授も、我らの前進に期待してくださっている。
 〈リース名誉教授は語っている。
 「戦後の日本の発展は、大企業の経済的、技術的な成功のみによって知られるべきではない。日本の人々と同様、世界の人々も、日本の非暴力運動の指導者、牧口、戸田、池田の3氏に感謝を表明すべきである」
 「世界は対話を必要としている。大いなる挑戦を必要としている。さらに非暴力の哲学と、言葉と、その実践を必要としている。
 宇宙大でありながら、現実を直視する仏教の伝統はその影響を与え始めている。
 世界は、池田会長とSGIに謝意を表明すべきである。
 その感謝の表明が、第2次世界大戦終結の記念日になされることほど、ふさわしいことはないであろう」〉
    ◇

 微笑(ほほえみ)の
  母がおわせば
   太陽が
  照らすと等しき
    平和の城かな

 じっは、8月15日は、蓮祖大聖人の御母・妙蓮(梅菊女(うめぎくにょ))君(ぎみ)の御命日であられる。(文永4年(1267年)の8月15日)
 大聖人は、仰せになられた。
 「悲母(ひも)の恩を報ぜんために此の経の題目を一切の女人に唱えさせんと願(がん)す」(御書1312ページ)
 まさしく、この8月15日は、全世界の母たちの幸福、そして、母たちの悲願である平和を、皆で、祈り、決意する日としたい。

 民衆よ強く! 民衆よ賢く! 

 勇敢に
  断固と恐れず
   指揮を執れ
  平和の革命
    我らの正道

 大聖人は仰せになられた。
 「第六天の魔王は、十の魔軍(魔の軍勢)を起こし、『生死(迷いと苦悩)の海』の中にあって、この婆婆世界を取られまい、奪おうとして、法華経の行者と争っている。
 日蓮は、第六天の魔王と戦う(法華経の行者の)身に当たっており、大兵を起こして戦うこと二十余年である。その間、日蓮は一度も退く心はない」(同1224ページ、通解)
 この現実世界は、仏と魔との戦場である。
 人間を不幸のどん底に陥れんとする「第六天の魔王」に対して、人類を平和へ、幸福へ、希望へと導かんとする「仏」の勢力は、断じて勝たねばならない。
 戸田先生は言われた。
 「広宣流布の戦だけは、絶対に負けるわけにはいかない。たじろぐことは許されない。
 負ければ、人類は、永遠に闇に包まれてしまう。民衆救済の尊い使命ある学会は、何があろうと負けてはならないのだ!」
 「戦争をなくすためには、社会の制度や国家の体制を変えるだけではだめだ。
 根本の『人間』を変えるしかない。
 民衆が強くなるしかない。
 民衆が賢くなるしかない。
 そして世界の民衆が、心と心を結び合わせていく以外ない」

 信教の自由 を護り抜け 

 私が、かつて読んだトルストイの文章で、深く感銘を受け、今でも記憶している言葉がある。そのなかから、三つ申し上げたい。
 それは──
 「人生とは、自身の心を広げることである」
 「幸福とは、心を、どれだけ大きく広げ、そして成長させたかにある」 
 まさに、人間革命である。
 さらに──
 「戦争とは、圧制の産物である。圧制がなければ、戦争はありえない。圧制が戦争を生み出し、戦争が圧制を支える。
 しかるに、戦争と戦おうと思う者は、圧制と戦わなければならない」
 その通りだ。
 人権の弾圧と戦い、
「信教の自由」を護り抜くことは、平和闘争の根幹である。
 そして──
 「不滅の魂には、同じように、不滅の行いが必要である。
 その行いとは、自身と世界を常に向上させることである。それが魂に与えられたものである」
 全世界の希望の太陽であり、平和の闘士たる、わが同志に一首を贈り、私の所感を結びたい。

 暗闇の
  千変万化の
   この社会
  世紀を照らせや
   偉大な君らよ

名誉会長 終戦62年に念う〔完〕