07年9月19日 聖教新聞 山梨最高協議会での名誉会長のスピーチ 下-1

07年9月19日 聖教新聞
山梨最高協議会での名誉会長のスピーチ 下-1

集え!最高の幸福の道に
共に喜びを!それが仏法
題目をあげる人御書を学ぶ人は最期は必ず大勝利

 一、きょうという日は、二度と来ない。
 人生、「時」を逃してはならない。
 とくに青年は、立つべき時に、断じて立つのだ。
 戸田先生は言われた。
 「『百千万の福徳』を得るのだ。『百千万の福徳』を出すのだ。そのために、広宣流布をするのである。
 広布の陣列に馳せ参じなさい。折伏に、勇んで馳せ参じなさい。そうしないと、自分が損をするよ」
 全人類の宿命を変えゆく根本の道。
 それは、広宣流布しかない。
 信心とは、無限の智慧だ。何ものをも恐れない勇気だ。
 その力を、わが生命にみなぎらせるのだ。
 自分も、友も、一緒に、悔いなき勝利の人生を、生きて生きて生き抜いていくのだ。
 広宣流布の同志に、三世永遠の大福徳が輝きわたることは、絶対に、まちがいない。

 喜んでもらうために会う 
 一、リーダーが友のところへ会いに行く。それは、「喜んでもらう」ためである。
 何かを押しつけて、嫌な思いをさせるのは、愚かなリーダーだ。
 我らには、大いなる夢がある。その実現へ、皆が「喜んで、やろう!」と奮い立つ。それでこそ、名リーダーである。
 久しぶりに会う友も、いるだろう。大事なのは、「喜んでもらうこと」。そのために心を尽くすのだ。
 私も、いつも、そうしてきた。
 喜んで題目!
 喜んで行動!
 そして喜んで、ともに勝利の万歳をしていきたい。
 苦難をも喜びに変える。これが仏法である。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(御書1448ページ)
 何があろうと「すべてが喜び」──これが仏法の根幹である。
 そうではなく、「すべてが地獄」なら、これほどの不幸はない。それは邪教である。
 ただ、奥さんに叱られた時──これだけは、ご主人は、喜べない。素直に反省して謝ることだ(笑い、大拍手)。
 私たちが日々読誦している法華経の方便品には「悦可衆心(えっかしゅうしん)」と説かれている。
 人々を喜ばせ、皆で楽しく進んでいくのが、リーダーの使命である。
 戸田先生は言われた。
 「いつ見ても、広布の闘争が嬉しくて嬉しくて仕方がない。そこにこそ本当の生きがいを感じている。そういう幹部になりなさい」
 リーダーは、ツンとした、威張った顔をしていてはいけない。
 戸田先生が、「威張るために行く幹部もいる。しかし、大作は皆が喜んでくれるために行く」と言われたこともあった。
 ともあれ、リーダーで決まる。
 リーダーが喜び勇んで前進してこそ、同志も皆、楽しく、充実して、生き生きと戦えるのである。

 ペン・ネームに込めた思い 
 一、山梨出身の文豪に、山本周五郎がいる。(1903~67年)
 戸田先生も愛読された。今も庶民の心をとらえて離さない。
 じつは、「山本周五郎」というペンネームは、彼が少年時代に丁稚奉公をしていた、店の主の名前である。
 この店主は、文学にも深い関心をもっていた。若き周五郎の才能を見出し、文学の道を大成していけるよう、あらゆる点で応援を惜しまなかった。
 店主はよく、自らの心情を周五郎に語ったという。
 「わたしがおまえのような好青年にめぐりあえたことは、わたしにとっても大きな仕合せだった。
 だからおまえが一人前の物書きになれたら、そのときは、だれでもいいおまえの前にあらわれた好青年に、出来るだけのことをしてやってくれ。それが本当の人間の財産というものだ」(木村久邇典著『人間 山本周五郎』小峯書店)
 味わい深い言葉である。
 山本周五郎は、この店主に、終生、感謝と敬愛を捧げた。
 この恩人の名をペンネームとして、人情味にあふれ、魂を揺さぶる名作を書き続けた。そこには、深き報恩の心があったのだと思う。
 やがて、名を成した周五郎は、恩人の言葉の通り、青年のために心を砕いた。
 周五郎は、自らの原稿を担当した出版社の青年に、恩人の言葉を紹介しつつ、こう強調したという。
 「きみもぽくくらいの年になったら、おやじ(店主=編集部注)やぼくのように心がけてくれたまえ。きみのまえに現れた好青年のために出来るだけのことを尽してやってくれ。もしそのとき、経済的にそうはできない状態であったならば、その心だけは持ち続けてほしい。それがしんじつの人間の財産というものだ」(同)
 世間には、自分の打算から、青年を使う人間が多い。しかし、自らをなげうって、青年を育てる人もいる。
 この無私の心にこそ、人間の精神の宝があろう。
 個人であれ、組織であれ、社会であれ、青年を大切にする心が光っているところ、そして、そうした心が継承されているところには、必ず勝利と繁栄が開かれていく。
 逆に、自分さえよければいいというエゴや慢心、堕落が、どれほど組織や社会を蝕んでいくことか。
 周五郎は、こう綴っている。
 「悪い人間が一人いると、その『悪』はつぎつぎにひろがって人を毒す。いちど悪に毒された者は、容易なことではその毒から逃れ出ることができない」(『五瓣の椿』講談社
 人々を苦しめる悪は、放置してはいけない。小さな思の根も、言論の剣で断つのだ。
 創価学会は、清浄無比の世界である。邪悪な勢力から、厳然と護り抜いていかねばならない。

 大目的観を持て 
 一、戸田先生は、折々に、こう教えてくださった。
 「人生の本当の偉さというものは、どこにあるのか。
 それは一つは、若い時に決めた希望、信念というものを、一生涯貫いていく。もう一つは、一生涯、若々しい情熱を持ちきっていけるかどうかである」
 「年齢には三つある。肉体的な年齢、精神的な年齢、生まれてから数えている年齢である。
 たとえ肉体は老いても、生命力は強く、若々しくなければ駄目だ」
 満々たる勇気と情熱を燃やして、わが信念の道を、生涯、「青年の心」で歩み抜くことだ。
 先生は、こうも語られた。
 「信心の深さが変わらなければ、生活は変わらない。信心が深ければ、生活は一変する。運命の転換ができるのである」
 "信心の深さ"が、"人生の深さ""人間の深さ"を決める。一切は、一念で決まるのだ。
 「人生に悩みというものがなかったら、人生ではない。その悩みが悩みでなくなってくるところが、菩提である」
 悩みや迷いや苦しみは、だれでも、あるものだ。それを「煩悩即菩提」とし、「変毒為薬」していく。これが妙法の醍醐味ではないか。
 さらに先生は叫ばれた。
 「大目的観を持て!人生最高の大目的観を持て! そうすれば、生も喜びであり、また死も喜びである」
 広宣流布の大目的に生き抜く人生は「生も歓喜」「死も歓喜」の大境涯を開いていくのである。

逆境を耐えることこそ気高い魂の証し 古代ローマの歴史家

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