08年1月12日付 聖教新聞 名誉会長との きのう・きょう・あした

08年1月12日付 聖教新聞
名誉会長との きのう・きょう・あした
共戦の旅路 第2回「関西広布の始まり」の地 大阪・堺

「常勝の空」を仰いで


堂島川土佐堀川にはさまれた中之島に立つ、重要文化財の大阪
市中央公会堂(2007年11月、池田名誉会長撮影)。大正7年(1918
年)に建てられた同公会堂では社会活動家ヘレン・ケラーが講演。
人類初の宇宙飛行士ガガーリンらも訪れた。本年秋には京阪電鉄
中之島線が開通予定。大阪の中心地の一つとして、中之島に再
び熱い視線が集まっている


婦人部の真心の花飾りで会場を荘厳! 堺本部幹部会に出席した
名誉会長が、学会歌の指揮を威風堂々と(昭和43年10月4日、堺
市の金岡体育館で)


 大阪拘置所から出所した池田名誉会長を出迎える同志(昭和32
年7月17日)。4年半、84回の公判 を重ねた「大阪事件」の裁判
は、名誉会長の冤罪 (えんざい)を晴らす無罪判決で終わった




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 「"中之島"だね」
 「そうですね」
 池田名誉会長夫妻は、その建物を見上げた。青銅屋根。赤レンガと白い花崗岩。大正時代の「ネオ・ルネサンス様式」が名高い、大阪市中央公会堂だ。愛着を込めて"中之島公会堂"とも呼ばれる。
 ──29歳の夏だった。
 ここで、愛する同志と一緒に正義を叫んだ。ここに、青春の不屈の金字塔を打ち立てた。ここが、学会の人権闘争の発火点となった──。
 昨年11月、7年ぶり258回目の関西指導。その合間を縫って、名誉会長はカメラを手にした。
 車中から捉えた公会堂は、悠然と、「常勝の空」に向かって聳え立っていた。
     ◇
 昭和32年(1957年)の7月3日。池田名誉会長は、公職選挙法違反の容疑をかけられ、大阪府警に出頭した。事実無根の不当逮捕である。
 7月17日。激怒した関西の同志は、中央公会堂で抗議の「大阪大会」を開いた。堂島川の対岸には名誉会長を陥れた大阪地検があった。音楽隊の必死の演奏が、拘置所内の名誉会長の独房まで届いた。
 炎天下の正午過ぎ、出所。「開襟シャツに髪を整え、片手に扇子を持って、堂々と出てこられました。目に焼き付いています」と、その場にいた人は語る。名誉会長は直ちに伊丹空港へ。来阪する戸田第2代会長を出迎えた。
 夕方6時、場内外合わせて約2万人の「大阪大会」が始まった。諸天の怒りは豪雨、苗鳴となり、一帯を覆った。
 この日、この時──中之島の公会堂は、「常勝関西」の原点の地となった。
     ◇
 「当時、東京から来はった幹部は冷たかった。"ニセモノ"も多かった。せやけど、戸田先生と池田先生は、全然違った」
 「信心も折伏も御書も、師匠に対する姿勢も、言葉遣いも立ち振る舞いも全部、池田先生に教わりました。先生がこの関西で、"本物の学会"を作ってくださったんです」
 堺の草創の婦人部が語る。
 昭和27年(1952年)8月14日の夜。名誉会長の初の関西指導は、堺市内の座談会だった。「ものの始まり 何でも堺」と言われる堺は、「関西広布の始まり」の地でもある。
 「人」は自然に育たない。一対一の直接対話で育てる。この単純で明快な道理を、名誉会長から徹底的に学んだ。
 昭和43年の堺本部幹部会。会場の制約で参加できない人が多かった。堺婦人部は知恵を絞り、友のもとに走った。
 「行ける人も行けへん人も花飾りを作ろう。『全員参加』で先生をお迎えしよう!」
 白とピンクの花を、柱や窓にちりばめた。殺風景な体育館が手作りの花園になった。
 その場で名誉会長は、「永遠に栄えゆく堺たれ」と訴え、学会員の基本中の基本を語っている。
 「隣近所の交際を大切にしていきたい。学会といっても、しよせん学会員一人一人の生活、行動が基本です」
 「学会員の行動いかんが、社会に大きく影響を及ぼします」
 「各自の職場で立派に仕事をやりぬき、信頼を勝ちえ、尊敬され、見事な勝利者になることが、信心の偉大なる証明となります。それが大きく折伏につながっていきます」
 どれも当たり前のことだ。だが、当たり前のことを貫く難しさを、知る人は少ない。
 名誉会長は、貫いた。
 同志も、続いた。
 大地を這うような、地道な実践を貫いてこそ、晴れ渡る「常勝の空」を仰ぐことができるのだ。
 関西の、そして堺の同志は、この鉄則を知っている。


共戦の旅路 第2回「関西広布の始まり」の地 大阪・堺〔完〕


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