08年1月18日付 聖教新聞 我らは魂の勝利者! 宇宙の大法則の道を 山本 伸一

08年1月18日付 聖教新聞
我らは魂の勝利者! 宇宙の大法則の道を 山本 伸一   (1)

今ここに
我らは勇躍!
一千万の同志の
集まりとなる。

在厳なる大使命を決意した
日蓮大聖人の大仏法を
信仰する
創価の偉大なる行列は
蓮祖の生命が
三世十方の仏菩薩が
厳然と讃え
守護しておられるのだ。

我らの人生は
盤石だ!
我らの信仰は
完勝である!

常に愚者は騒ぎ走る。
我らに対して
新興宗教」などと
悪口罵詈してきた。

愚者は
いずこでも
いずれにも
嫉妬に焼かれ
邪悪に囚われ
正視眼を持てないのだ。
それは
心が濁り
不満の道を
彷徨(さまよ)っていることの
証左である。

非暴力の大英雄
マハトマ・ガンジー
大切にした
詩の一節がある。
「慈悲は宗教の根源
 罪の根源は傲慢」

傲慢な悪人を
威張らせるな!
善良な民衆に
尽くしゆけ!
これが
宗教の正道である。

我らの信仰は
悠久なるインドの
釈尊の正統であり
七百年前の
日蓮大聖人の直系である。
蓮相の出世の本懐たる
「三大秘法」であり
極意の中の極意の
仏法である。
そして信心である。

浅はかな
新興宗教」との非難など
全く成り立たない。
釈尊の教えが
大聖人の教えが
なぜ新興宗教なのか!

真実の宗教とは
生命の法理であり
宇宙の法則を
説き明かしたものだ。
正しき信仰とは
大宇宙の原動力たる
そして生命の根本たる
妙法蓮華経の極理を
唱え実践していくものだ。

 偉大なる
  宇宙と共に
    我が生命
  三世に輝く
    勝利の王者と

いかに
有名人になっても
いかに
名声だけを追いかけても
魂の真の勝利者とはいえない。
いな決して
勝利者とはなれない。

いかに
財宝を持ち
権力を持っても
永遠に通ずる幸福の魂とは
絶対にいえない。

蓮祖は喝破しておられる。
「死後の苦悩の世界では
 王の位や将軍も
 ものの数ではない。
 獄卒の責めにあう姿は
 猿回しの猿と異ならない。
 この時は どうして
 名聞名利や我慢偏執の心で
 いられようか」

幸福の大道の
根本の法則を探し求めて
幾千・幾万の哲学者が
思索し論じてきた。

その一例として
紀元前六世紀ごろに活躍した
古代ギリシャの哲学者
ラクレイトスは
生生流転が
世界の実相であると説き
「万物は流転する」との
有名な言葉を残した。

しかし
こうした探究も
理論的な光は見えるが
いまだ完全なる
生命の法則とはいえない。
万人に通じゆく
幸福の具体的な方途を
見出すことはできなかった。

御聖訓には仰せである。
「皆己心(こしん)の法を
 片端(かたはし)片端
 説きて候なり、
 然りといへども
 法華経の如く説かず」

わが生命の全体像を
あますところなく
解明した哲理を
人類は渇仰してきたのだ。

いつの時代でも
人間は外に幸福を探し
流離(さすら)いながら追求して
汝自身の魂が
いかなるものかを
知らずにきたといってよいい。

つまり
オーストリアの精神医学者
フロイトの愛娘で
父のあとを継いだアンナが
分析している通りだ。、
「いつも自分の外に
 力と自信を探していた。
 しかし それは
 自分の中から
 湧き出るものである。
 自分の内部に
 常駐しているのだ」
仏法に近い
賢明な洞察である。

御金言には
「九山(くせん)・八海(はっかい)も
 我が身に備わりて
 日月・衆星も
 己心にあり」と
明言されているじ

賢者も愚者も
智者も凡夫も
すべての人間には
「心」がある。
その心に
尊極の不滅の生命が
具わっているのだ。

我らの心は
宇宙より広い。
心より広い
宇宙はないのだ。

ゆえに
ウズベキスタンの大詩人
ナワイーは詠った。
「汝の尊厳と同じく
 他人の尊厳を大切にせよ」

その尊厳とは
位でもなければ
財産でもない。
生命それ自体の尊厳であり
人間としての振る舞いの
尊厳である。

だからこそ
ロシアの大文豪
ドストエフスキーは訴えた。
「地位の高い者、
 力のある者を
 恐れることなく、
 ただひたすらに賢く、
 つねに立派な態度を
 くずさぬがよい」

この「立派な態度」
すなわち
「人の振舞」の原動力が
正しき宗教であり
正しき哲学であり
実践と信心だ。

信心とは
幸福への行動である。
信心とは
平和への闘争である。
ともあれ
正しき信仰の究極が
この仏法だ。
この御本尊だ。

大聖人は
真剣な求道の女性
日女御前に示された。
「此の御本尊
 全く余所に求る事なかれ・
 只我れ等衆生
 法華経を持ちて
 南無妙法蓮華経
 唱うる胸中の肉団に
 おはしますなり、
 是を九識心王真和の都とは
 申すなり」

この全宇宙の中で
最も壮麗なる都は
一体いずこにあるのか。
他のどこでもない。
妙法を朗々と唱え
広宣流布に挑みゆく
私たちの胸の中にこそあるのだ。

御義口伝には宣言されている。
「始めて 我心(わがこころ)
 本来の仏なりと知るを
 即ち大歓喜と名く
 所謂南無妙法蓮華経
 歓喜の中の大歓喜なり」

わが運命を嘆くこともない。
人を羨むこともない。
自らの命に生き切ることだ。
そして
縁する一人ひとりに
生きる喜びを贈りゆくのだ。

 恐れるな
  仏の生命は
     大宇宙
   動かす力の
    信心なりせば

大聖人は仰せになられた。
「とてもかくても
 法華経
 強いて説き聞かすべし、
 信ぜん人は仏になるべし
 謗ぜん者は毒鼓の緑となって
 仏になるべきなり、
 何にとしても仏の種は
 法華経より外になきなり」

大聖人の仏法は
「下種仏法」である。
たとえ一時は
相手が反対したとしても
その生命の奥深くには
妙法の種が植えられている。
その種は
必ず芽生えるのだ。

それゆえに
相手がどうであれ
白信満々と
希望に燃えて
明るく朗らかに
大仏法を語ればよい。
その対話がすべて
自他ともの
永遠の幸福の種となるからだ。

十世紀中央アジア
哲学者ファラビは綴った。
「正義と正義の守り人を愛し
 不正と横暴の悪の根を憎め」


ブログ はればれさんからのコピーです。