08年1月19日付 聖教新聞  名誉会長との きのう・きょう・あした

08年1月19日付 聖教新聞
名誉会長との きのう・きょう・あした
共戦の旅路 第3回 雪の秋田指導 冬は必ず春となる



名誉会長とともに勝利宣言(1982年1月13日)。秋田では今、26周年の記念月間。
寒風のなか、女子部をはじめ、全国模範の拡大に前進している



共に戦った人は忘れない! 初代秋田支部長の故・伊藤
 福次さん宅を訪問。一家と追善回向を(同年1月11日)




「よし! ここで座談会を開こう」。「妙法」という名の街角から、名誉会長の渾身の激励行が始まった。同志を見つけるたびに、車を降りて、輪の中へ(同年1月10日)




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 思い出すたびに胸が熱くなる。そういう瞬間を持てる人生は幸せである。
 みちのくの冬に歓喜の春がやってきた6日間──1982年(昭和57年)1月の池田名誉会長との日々を、秋田の友は忘れない。永遠に忘れることができない。
     ◇
 「先生! 先生!」
 「泣いてはいけないよ。私が来たから、もう大丈夫だ」
 秋田空港から車で10分ほど。ガソリンスタンドの一角に人の輪ができた。
 腰の曲がったおじいちゃん、おばあちゃんがいる。赤ん坊をおぶったお母さん。ほっペが真っ赤な子どもたち。
 その中心に、名誉会長がいた。革靴は、雪を踏んで、ぐしゃぐしゃになっている。
 「春になるのを待って」
 そんな周囲の声を退けて、この日、昭和57年1月10日、厳寒の秋田へ飛んだ。
 坊主どもの卑劣な迫害に苦しみ、耐えに耐え抜いた純朴な友が待っていたからだ。
 デマ週刊誌を手に罵られた。同志だった人間になじられた。その辛さ、悔しさ。仇を討たねばならなかった。
 「一番苦労した人が、一番幸せになれるのが、この妙法です!」
 名誉会長はそう言って、一人一人と握手を交わした。そして記念撮影。
 こうした"街頭座談会"は秋田文化会館(当時)に着くまで9度にも及んだ。「先生が秋田に!」の報を聞き、居ても立ってもいられず飛び出した人々が、自然発生的に集まったのである。
 「先生の手は、つきたてのおもちのようだった」「ふっくら柔らかかったなあ!」
 同志の興奮と感激。乗ってきた自転車や、着ていたコ一トを忘れて帰った友もいたほどである。
 もちろん、その後ろにも、会いたい気持ちを抑え、自宅等で秋田訪問の成功を真剣に祈る、無数の同志たちがいた。
 当時、陰の戦いに徹したこの人々は「雪の秋田指導 栄光グループ」となっている。
     ◇
 「明日の勤行会は総動員だ。外に待っている人も含めて記念撮影しよう」
 「『秋田の信心をみろ!』と宣言するんだ」
 "雪の秋田指導"のクライマックス──会館に隣接する沼田児童公園での記念撮影は、12日の昼、名誉会長の提案で決まった。
 迎えた翌13日。夜来の"ぼた雪"が秋田市内を覆った。そのなかを、名誉会長の元へ、全県から3000人の同志が集ってきた。
 雪と同じ、真っ白なコートを着た名誉会長とともに記念撮影。何度も何度も、凱歌の勝鬨と、万歳の歓声。「人間革命の歌」の大合唱が、銀世界に轟きわたった。
 空からは雪の花。心には、喜びの花びらが舞っていた。
 我らは勝った! これからも勝ち続けるのだ!──と。
     ◇
 10日からの6日間で名誉会長が会った同志は、実に9300人になる。
 少女部員の頭の雪を大きな手で払い、一緒に"雪やこんこ"を歌った。
 花を届けた女子高等部員には"花束ありがとう合掌"の揮毫。
 素手で雪を固め、「かまくら」をつくってくれた青年たちには激励の和歌。
 連日の会合。功労者宅の訪聞。役員と、居合わせた友と次々にカメラに納まった。
 あの眼差し。あの声。肩に掛かった雪。雪まみれの靴。
 師匠の姿を思うたびに、秋田の友には、無限の勇気が湧きあがってくるのである。

共戦の旅路 第3回 雪の秋田指導 冬は必ず春となる〔完〕



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