08年1月29日付 聖教新聞 名誉会長との きのう・きょう・あした

08年1月29日付 聖教新聞
名誉会長との きのう・きょう・あした
共戦の旅路 第4回 正義の誓い 神奈川 会員のために私はいる



昭和56年(1980年)4月13日、一心に名誉会長を求め関西から集った同志をピアノで激励。幾多の共と教宣を誓った神奈川文化会館は、永遠の師弟の殿堂。





縁深き横浜の壮年部の代表と。「信心即健康で、いい人生を!」。真心の一言一言が、友の心に火を灯(とも)す(昭和55年12月13日、神奈川文化会館で)




出会いの場が即、励ましの場に。夕暮れの港の風景を背に、少年少女部の友と笑顔で語り合う(昭和55年12月13日、神奈川文化会館で)


 

 "こんにちは。21世紀をよろしく"。
 香峯子夫人とともに、未来からの使
 者にあいさつ(平成元年〈1989年〉
 2月21日、横妻兵・山下公園で)




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 神奈川文化会館に、池田名誉会長の奏でるピアノの旋律が響きわたった。
 会場には、人生の師匠を求め、やむにやまれず集った同志が詰めかけていた。
 昭和55年(1980年)4月。第3代会長"辞任"の翌年。第1次宗門事件の嵐が吹き荒れていた。
 「名誉会長を聖教新聞に出すな」「会合でスピーチしてはいけない」「先生と呼んではいけない」
 卑劣な宗門と、謀略の輩が結託して、名誉会長の動きを封じ込めようとしていた。臆病にも、邪悪な権威を恐れ、同調する幹部もいた。
 「しゃべるなと言われても、書くことができる。書くなと言われれば、音楽を弾いてでも激励できる」
 「どんな立場になろうと、私は私である。どんな圧迫があろうとも、私は愛する学会員のために働き続ける。それが、この十数年間の私の決意であり、戦いであった」
 ピアノの演奏は続いた。
 「うれしいひな祭り」「夕焼け小焼け」「月の沙漠」「厚田村」、そして"大桶公"。
 名誉会長の指先が鍵盤に触れるたびに、その音色が、友の心に、深くしみこみ、吸い込まれていく。
 "負けてはいけないよ"
 "がんばれ""がんばれ"
 それは、ただの「音」ではなかった。名誉会長の「声」だった。
     ◇
 世界に広がる港を望む神奈川文化会館は、昭和54年(1979年)4月に開館した。
 それは「"七つの鐘"を鳴らし終えた凱旋将軍に、世界広布の指揮を執っていただこう!」との、神奈川の弟子の祈りと熱誠の結晶だった。
 会長辞任直後、名誉会長が真っ先に向かった場所こそ、この会館だった。
 故郷・大田と多摩川一本隔てた神奈川は、名誉会長が青春時代より、広布のために走り抜いた地である。
 学会の支援活動の初陣となった統一地方選では、横浜・鶴見区の責任者として大勝利に導いた。
 横須賀や相模原、横浜の保土ヶ谷・旭方面には、支部長代理として指揮を執った文京支部の同志がいた。
 そして、"もう一つの2月闘争"の舞台・川崎──。
 「神奈川は私の一番思い出の地ともいえます。私が一番最初に折伏をしたのも神奈川の地でした。
 私の戦いは神奈川から始まりました。神奈川は私にとって一番縁が深いのです」
     ◇
 昭和54年5月5日。名誉会長は、この神奈川文化会館で「正義」の揮毫を認めた。「われ一人正義の旗持つ也」の脇書を添えて。
 正義の大宝城に、全国のあの地この地から、そして海外からも、名誉会長を求める同志がやって来た。
 未来を託す少年少女と語り合った。整理の役員に声をかけた。地下の食堂に下りて、陰の労苦をねぎらった。階段で。ロビーで。同志の姿があれば、走るように会館内を動きに動いた。名誉会長のいる場所が"本陣"だった。
 時には向かいの山下公園に足を運び、内外の友と記念撮影した。そばには、いつも変わらぬ香峯子夫人の笑顔。
 新聞にも報道されない、華やかな脚光もない一対一の対話。この「励ましの闘争」が、世界広布へ飛翔する"新しい創価学会"を開いた。断ち切ろうとされた師弟の絆は、より強靭になった。
 神奈川には「正義の誓」の炎が燃え続けている。

共戦の旅路 第4回 正義の誓い 神奈川 会員のために私はいる〔完〕


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