2008年2月15日 聖教新聞 創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る 2-1
2008年2月15日 聖教新聞
創価女子短期大学 特別文化講座
創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る 2-1
学びゆく者こそ人間の王者
学生時代のキュリー夫人
「未知の事柄を学ぶたびに喜びが胸にあふれました」
青春 二歳(ふたとせ) 誉れあり
白鳥よ 幸福の大空へ
短大生
生き抜け
勝ち抜け
この一生
人生には、さまざまな試練や悲しみがあります。
しかし皆さんは、決してそれに負けてはいけません。
創価女子短大に縁したすべての方々は、必ず人生の勝利者になっていただきたい。それが私と妻の願いです。
監視の目をくぐって勉強
一、家族が「一家の魂」と慕う母を失った後、マリー・キュリー(キュリー夫人)のお父さんは、いっそう、子どもの教育に大情熱を注いでいきました。
"先立った妻のためにも、必ず子どもたちを立派に育て上げてみせる!"という、深き真情であったのでしょう。
マーニャ(マリーの幼き日の愛称)は15歳のとき、最優秀の成績で、女学校を卒業しました。
しかし、当時のポーランドでは、それ以上、学問を続けることができなかった。
高等教育への門は、いかに優秀であっても、女性には開かれていなかったのです。
勉強したくてもできないことが、どれほどつらいことか。私は自分の経験からも、痛いほどわかります。
私たちの世代は、最も勉強に励める10代の青春を、戦争で滅茶苦茶にされたからです。
マーニャは、16歳のころから、家計を助けるために家庭教師を始めました。
とともに、自らの学問への熱情は、いささかもやむことがなく、「移動大学」で学んでいったのです。
「移動大学」は、正規の大学ではありません。祖国ポーランドの復興を目指す青年たちが、自発的に設立した"秘密の大学"です。
なぜ、「秘密」か? もしも、集まって勉強しているところを、警察に見つかれば、ただちに投獄されたからです。
監視の目をかいくぐって、場所を転々と変えながら、青年たちは、ときに教師となり、ときに学生となって、教え合い、学び合い、互いの知性を錬磨していったのです。
独立のために幾たびも勇敢に蜂起し、過酷な弾圧を受けてきたポーランドの人々は、「暴力で社会を変えることはできない。教育によって、民衆に力をつけていく以外にない」という結論に深く達していました。
学ぼう! 苦しむ同胞のために!
力をつけよう! 未来のために!──青年たちの勉学の原動力は、この崇高な使命感でした。
汝自身の使命を深く自覚することは、人間としての根を深く張ることです。その人は才能の芽を急速に伸ばしていけるのです。
現実の厳しさを生きた人間学に
一、キュリー夫人は、書いています。
「ひとりひとりの個人の運命を改善することなくしては、よりよき社会の建設は不可能です。
ですから、各人が自分の運命をきりひらいていこうと努力しながら、しかも同時に全人類にたいして責任をわけもたねばならないのです。
なぜなら、自分がいちばん役に立ってあげられるひとびとをたすけることは、わたくしたちひとりひとりの義務だからです」(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)
一人の人間の運命を変革せよ!
人類に対する責任を自覚せよ!
苦しんでいる人々に手を差し伸べよ!
これが、マリー・キュリーの信念でした。それは、創価の「人間革命」の理念とも響き合っております。
17歳のマーニャは、自ら"先生"となり、工場で働く女性たちに勉強を教えました。彼女たちが本を読めるよう、小さな図書室もつくってあげたといいます。
日中は家庭教師として市内を駆け回る。工場で女性たちに授業をする。そして、移動大学の秘密講義を受けるという毎日でした。
マーニャにとって、最大の希望は、フランスのパリ大学へ行って勉強することでした。また、姉のブローニャも、同じ望みを持っていました。
パリ大学では、女性に対して門戸が開かれていたのです。
パリに行って勉強して力をつけた後、祖国ポーランドに舞い戻り、人々のために、人々とともに働きたい。これが、彼女たちの熱い願いでした。
花のパリヘ──しかし父の給料と、姉妹のわずかな家庭教師の収入だけでは、いつまでたっても留学できる目処(めど)が立ちませんでした。
そこでマーニャは、姉のブローニャに、一つの提案をしました。
──まず、姉がパリへ行く。自分はポーランドに残り、住み込みの家庭教師をして仕送りをする。
そして姉が学業を終えて帰ってきたら、今度は自分がパリに行く──
二人の姉妹は、父親にも相談し、この約束を実行に移しました。
当時、女性の家庭教師は、下に見られることもあった。マーニャは、傲慢な、大嫌いな人のもとで働かなければならないときもあったようです。
彼女は若くして、現実社会の厳しさを嫌というほど味わいながら、その一つ一つを、生きた人間学の糧に変えていったのです。
マーニャは、友人への手紙に書いています。
「人間というものがどういうものか、少しわかるようになったのは収穫でした。小説の人物みたいな人が実際にもいるとわかったし、お金で堕落した人たちとつき合ってはいけないということも、学びました」(エーヴ・キュリー著、河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)
つらいとき、苦しいとき、彼女は友人と語り合ったり、手紙のやりとりをしたりしては、励まし合っています。良き友情は、青春の最高の力であり、宝です。
キュリー夫人 一人一人の個人の運命を改善することなくしてよりよき社会は築けない
真心の手紙
一、もっと収入を多くするため、マーニャは親元を離れ、ポーランドの地方に出て働く決心をします。
愛する父に別れを告げ、汽車で3時間、橇(そり)で4時間。生まれてはじめて、家族と遠く離れての生活となりました。
この間、マーニャは、何度もワルシャワのお父さんに手紙を書き送っています。
彼女は、父思いの心の優しい娘でした。
老いた父は、自分に大きな収入がなく、しかも投機の失敗で財産を失い、子どもたちに十分な教育を受けさせてあげられないことを、ずっと気に病んでいました。
けれども、そんなお父さんに、マーニャは綴っています。
「わたくしは、おとうさまがわたくしにかけてくださったご厚恩にたいして、永遠に感謝の念を忘れないつもりでおります。
わたくしの唯一の悲しみは、わたくしたちの受けたご恩をお返しすることができないことです。人間の力でできるだけ、おとうさまを愛し敬うことしかわたくしたちにはできません」 (エーヴ・キュリー著、川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)
娘から、こんな手紙を受けとったお父さんは、どれほどうれしかったことでしょう。
この親孝行の振る舞いのなかに、マリー・キュリーという女性の深き人間性と知性が凝結していることを、賢き皆さんは感じ取ってください。
仏典には、「親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度え(笑)みて向へとなり」と説かれています。
親孝行といっても、特別なことではない。
「一日に、二、三度の笑顔」でもいい。元気な声でもいい。親元を離れている人も、今は電話があります。もちろん、手紙も、葉書もあります。
大切なのは「心」です。「真心」です。「智慧」です。
「親孝行」が、人間としての成長の証しなのです。
誇りも高く試練を越えよ
一、この地方で募らした家庭教師の3年間は、マーニャにとって、辛抱の時でありました。
勉強も続けましたが、まったくの独学です。
憂鬱もあった。焦りもあった。
絶望もあった。落胆もあった。
しかし、彼女は、ある手紙にこう書いています。
「とてもつらい日々がありました。でも、その思い出を和らげてくれる唯一のものは、いろいろあったにもかかわらず、正直に誇り高く、それを乗り越えることができたということです」(スーザン・クイン著、日中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房)
青春時代は、悩みの連続です。どれも皆、自分が強く、賢く、大きくなっていくために必要な試練なのです。
それらを、マーニャのように、「誇り高く」乗り越えていってください。
一、マーニャは独学を続けるうち、科学の分野で社会に貢献しようと思うようになりました。
姉がパリに発ってから5年。
医者としての道を歩み始めた姉から、パリに来るようにとの手紙が、ついに届きました。
マーニヤは、父を残していくことを考えると、後ろ髪を引かれる思いでしが、パリ行きを決意します。
そして、1891年11月、父に見送られながら、ワルシャワの駅を出発したのです。
創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る 2-2に続く
ブログ はればれさんからのコピーです。
創価女子短期大学 特別文化講座
創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る 2-1
学びゆく者こそ人間の王者
学生時代のキュリー夫人
「未知の事柄を学ぶたびに喜びが胸にあふれました」
青春 二歳(ふたとせ) 誉れあり
白鳥よ 幸福の大空へ
短大生
生き抜け
勝ち抜け
この一生
人生には、さまざまな試練や悲しみがあります。
しかし皆さんは、決してそれに負けてはいけません。
創価女子短大に縁したすべての方々は、必ず人生の勝利者になっていただきたい。それが私と妻の願いです。
監視の目をくぐって勉強
一、家族が「一家の魂」と慕う母を失った後、マリー・キュリー(キュリー夫人)のお父さんは、いっそう、子どもの教育に大情熱を注いでいきました。
"先立った妻のためにも、必ず子どもたちを立派に育て上げてみせる!"という、深き真情であったのでしょう。
マーニャ(マリーの幼き日の愛称)は15歳のとき、最優秀の成績で、女学校を卒業しました。
しかし、当時のポーランドでは、それ以上、学問を続けることができなかった。
高等教育への門は、いかに優秀であっても、女性には開かれていなかったのです。
勉強したくてもできないことが、どれほどつらいことか。私は自分の経験からも、痛いほどわかります。
私たちの世代は、最も勉強に励める10代の青春を、戦争で滅茶苦茶にされたからです。
マーニャは、16歳のころから、家計を助けるために家庭教師を始めました。
とともに、自らの学問への熱情は、いささかもやむことがなく、「移動大学」で学んでいったのです。
「移動大学」は、正規の大学ではありません。祖国ポーランドの復興を目指す青年たちが、自発的に設立した"秘密の大学"です。
なぜ、「秘密」か? もしも、集まって勉強しているところを、警察に見つかれば、ただちに投獄されたからです。
監視の目をかいくぐって、場所を転々と変えながら、青年たちは、ときに教師となり、ときに学生となって、教え合い、学び合い、互いの知性を錬磨していったのです。
独立のために幾たびも勇敢に蜂起し、過酷な弾圧を受けてきたポーランドの人々は、「暴力で社会を変えることはできない。教育によって、民衆に力をつけていく以外にない」という結論に深く達していました。
学ぼう! 苦しむ同胞のために!
力をつけよう! 未来のために!──青年たちの勉学の原動力は、この崇高な使命感でした。
汝自身の使命を深く自覚することは、人間としての根を深く張ることです。その人は才能の芽を急速に伸ばしていけるのです。
現実の厳しさを生きた人間学に
一、キュリー夫人は、書いています。
「ひとりひとりの個人の運命を改善することなくしては、よりよき社会の建設は不可能です。
ですから、各人が自分の運命をきりひらいていこうと努力しながら、しかも同時に全人類にたいして責任をわけもたねばならないのです。
なぜなら、自分がいちばん役に立ってあげられるひとびとをたすけることは、わたくしたちひとりひとりの義務だからです」(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)
一人の人間の運命を変革せよ!
人類に対する責任を自覚せよ!
苦しんでいる人々に手を差し伸べよ!
これが、マリー・キュリーの信念でした。それは、創価の「人間革命」の理念とも響き合っております。
17歳のマーニャは、自ら"先生"となり、工場で働く女性たちに勉強を教えました。彼女たちが本を読めるよう、小さな図書室もつくってあげたといいます。
日中は家庭教師として市内を駆け回る。工場で女性たちに授業をする。そして、移動大学の秘密講義を受けるという毎日でした。
マーニャにとって、最大の希望は、フランスのパリ大学へ行って勉強することでした。また、姉のブローニャも、同じ望みを持っていました。
パリ大学では、女性に対して門戸が開かれていたのです。
パリに行って勉強して力をつけた後、祖国ポーランドに舞い戻り、人々のために、人々とともに働きたい。これが、彼女たちの熱い願いでした。
花のパリヘ──しかし父の給料と、姉妹のわずかな家庭教師の収入だけでは、いつまでたっても留学できる目処(めど)が立ちませんでした。
そこでマーニャは、姉のブローニャに、一つの提案をしました。
──まず、姉がパリへ行く。自分はポーランドに残り、住み込みの家庭教師をして仕送りをする。
そして姉が学業を終えて帰ってきたら、今度は自分がパリに行く──
二人の姉妹は、父親にも相談し、この約束を実行に移しました。
当時、女性の家庭教師は、下に見られることもあった。マーニャは、傲慢な、大嫌いな人のもとで働かなければならないときもあったようです。
彼女は若くして、現実社会の厳しさを嫌というほど味わいながら、その一つ一つを、生きた人間学の糧に変えていったのです。
マーニャは、友人への手紙に書いています。
「人間というものがどういうものか、少しわかるようになったのは収穫でした。小説の人物みたいな人が実際にもいるとわかったし、お金で堕落した人たちとつき合ってはいけないということも、学びました」(エーヴ・キュリー著、河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)
つらいとき、苦しいとき、彼女は友人と語り合ったり、手紙のやりとりをしたりしては、励まし合っています。良き友情は、青春の最高の力であり、宝です。
キュリー夫人 一人一人の個人の運命を改善することなくしてよりよき社会は築けない
真心の手紙
一、もっと収入を多くするため、マーニャは親元を離れ、ポーランドの地方に出て働く決心をします。
愛する父に別れを告げ、汽車で3時間、橇(そり)で4時間。生まれてはじめて、家族と遠く離れての生活となりました。
この間、マーニャは、何度もワルシャワのお父さんに手紙を書き送っています。
彼女は、父思いの心の優しい娘でした。
老いた父は、自分に大きな収入がなく、しかも投機の失敗で財産を失い、子どもたちに十分な教育を受けさせてあげられないことを、ずっと気に病んでいました。
けれども、そんなお父さんに、マーニャは綴っています。
「わたくしは、おとうさまがわたくしにかけてくださったご厚恩にたいして、永遠に感謝の念を忘れないつもりでおります。
わたくしの唯一の悲しみは、わたくしたちの受けたご恩をお返しすることができないことです。人間の力でできるだけ、おとうさまを愛し敬うことしかわたくしたちにはできません」 (エーヴ・キュリー著、川口篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水社)
娘から、こんな手紙を受けとったお父さんは、どれほどうれしかったことでしょう。
この親孝行の振る舞いのなかに、マリー・キュリーという女性の深き人間性と知性が凝結していることを、賢き皆さんは感じ取ってください。
仏典には、「親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度え(笑)みて向へとなり」と説かれています。
親孝行といっても、特別なことではない。
「一日に、二、三度の笑顔」でもいい。元気な声でもいい。親元を離れている人も、今は電話があります。もちろん、手紙も、葉書もあります。
大切なのは「心」です。「真心」です。「智慧」です。
「親孝行」が、人間としての成長の証しなのです。
誇りも高く試練を越えよ
一、この地方で募らした家庭教師の3年間は、マーニャにとって、辛抱の時でありました。
勉強も続けましたが、まったくの独学です。
憂鬱もあった。焦りもあった。
絶望もあった。落胆もあった。
しかし、彼女は、ある手紙にこう書いています。
「とてもつらい日々がありました。でも、その思い出を和らげてくれる唯一のものは、いろいろあったにもかかわらず、正直に誇り高く、それを乗り越えることができたということです」(スーザン・クイン著、日中京子訳『マリー・キュリー1』みすず書房)
青春時代は、悩みの連続です。どれも皆、自分が強く、賢く、大きくなっていくために必要な試練なのです。
それらを、マーニャのように、「誇り高く」乗り越えていってください。
一、マーニャは独学を続けるうち、科学の分野で社会に貢献しようと思うようになりました。
姉がパリに発ってから5年。
医者としての道を歩み始めた姉から、パリに来るようにとの手紙が、ついに届きました。
マーニヤは、父を残していくことを考えると、後ろ髪を引かれる思いでしが、パリ行きを決意します。
そして、1891年11月、父に見送られながら、ワルシャワの駅を出発したのです。
創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る 2-2に続く
ブログ はればれさんからのコピーです。