2008年2月15日 聖教新聞  創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る 2-2

2008年2月15日 聖教新聞
創価女子短期大学 特別文化講座
創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る 2-2

 「ああ! 女子学生の青春は 早瀬のようにすぎていく
 まわりの若者たちはつねに新しい情熱で
 安易な楽しみに 走るばかり!
 孤独のなかで
 彼女は生きる 手さぐりしながら けれど幸せに満ちて
 屋根裏の部屋で 思いは燃え
 心ははてしなく 広がっていくから」(前掲、河野万里子訳)
 これは、マリー・キュリーが、母国語のポーランド語で書いた詩の一節です。
 姉のブローニャは医師の免許をとり、パリでポーランド人男性と結婚していました。
 パリで留学生活を開始したマリーは、当初、姉夫婦と一緒に暮らしましたが、勉学に専念できる環境を求めて、大学に近いカルチェ・ラタン(学生街)で一人暮らしを始めます。
 1989年の6月、私は、創価大学と教育交流を結んだパリ第5大学を訪問し、オキエ学長らの温かき歓迎をいただきました。
 多くの英才たちとも語り合いました。
 カルチェ・ラタンの街並みを、青年とともに歩いたのも、思い出深いひとときとなりました。
 ちなみに、今日の「パリ大学」とは、フランスのパリを中心に存在する13の大学の総称です。
 このうち、パリ第6大学は、現在、キュリー夫妻の名前を冠して、「ピエール・エ・マリー・キュリー大学」と呼ばれています。

 「今までの百倍、千倍の勉強を!」
 一、希望にあふれて、パリでの勉強を始めたマリーでしたが、思わぬ壁にぶつかりました。
 フランス語には十分な自信があったのですが、実際に講義を受けてみると、聞き取れなかったり、ついていけなかったりすることが、たびたびあった。
 わが留学生の皆さんの苦労にも通ずることでしょう。
 さらに、自分なりに積み重ねてきた独学の知識が、同級生たちに比べて、あまりにも貧弱であることがわかってきました。
 しかし、そのようなことで、くよくよと落ち込んでいるマリーではありませんでした。
 勉強が足りない? では、もっと勉強すればいい!
 まだ足りない? では、もっともっと勉強すればいい!
 今までの十倍、百倍、いや、千倍も!
 一人暮らしを始めたマリーは、きっぱりと「千倍も猛勉強している」(前掲、田中京子訳)と書いています。

 使命ある留学生
 一、パリの学生生活で、はじめマリーは、なかなか仲間と打ちとけられませんでしたが、やがて学問の情熱に意気投合し、多くの親しい友人ができていきます。
 また、このころ出会ったマリーの友人には、その後、世界的な音楽家となり、ポーランドの首相になるような人物もいました。
 留学生の方々は、それぞれの国の指導者となっていく、深き使命を帯びています。
 マリーは、のちに大成してからも、各国からの留学生や研究者を、真心こめて大事にしました。それぞれの祖国への賛辞も、惜しみませんでした。
 「あなたの美しいお国は、よく存じています。お国の方がたは、わたしをほんとうに歓迎してくださいました」(前掲、河野万里子訳)等と。
 私は、留学生の方々は、その国の宝の人材であるとともに、人類全体の「平和の宝」であり、未来への「希望の宝」と思っております。

 屋根裏の日々がわが「英雄時代」
 一、このころ、マリーが一人暮らしをしたのは、7階建ての建物の屋根裏部屋でした。
 当時、マリーは、父からの少しの仕送りと、自分の貯金とを合わせて、わずかなお金でやりくりしなければなりませんでした。
 冬は、暖房の石炭代を節約するためにも、ずっと大学や図書館で勉強。家に帰って、寒さに震えながら、さらに勉強。
 「わたしは自分の勉強に専念した。わたしは時間を講義と実験と図書館での自習に分けた。夜は自室で勉強する。ほとんど徹夜のこともある」(前掲、田中京子訳)
 何週間もの間、バターをぬったパンしか食べられないこともありました。くだもの一つ、チョコレートひとかけらが、どれほど大切な滋養であったか。
 しかし彼女に、わびしい悲愴感はありませんでした。むしろ、澄みきった明るさを抱いていました。
 自分の大いなる目標のために苦労することは、苦しみではない。
 むしろ、喜びである。誇りである。青春時代の苦労こそ、不滅の財宝なのです。
 「この期間がわたくしに与えてくれた幸福は、筆にも口にもつくせぬほど大きなものでした」
 「未知のことがらをまなぶたびによろこびが胸にあふれる思いでした」(前掲、木村彰一訳)──マリーの後年の述懐です。
 華やかな社交がなくとも、古今の大偉人たちとの心躍る知性の対話があった。
 贅沢な御馳走がなくとも、人類の英知の遺産が豊かに心を満たしてくれた。
 流行のファッションがなくとも、大宇宙の真理の最先端の発見が光っていた。
 彼女は、どんな殿堂よりも荘厳なる「学問の王国」で、王女のごとく青春を乱舞していたのです。
 マリー・キュリーにとって、貧しさと孤独の中で、全生命を燃焼させて勉学に励んでいった、この時期は、「生涯における英雄時代」であったと言われています。

親孝行の娘であれ
父への手紙 「私は永遠に感謝を忘れません」

 深き青春の原点を胸に
 一、私も妻も大好きな歌に、短大の愛唱歌「白鳥よ」があります。

♪白鳥よ
 深き縁の 白鳥よ
 いづこより来し
 碧き泉に
 青春 二歳(ふたとせ) 誉れあり
 未来みつめて
 いつの日か
 ああ聡明の笑み光る

 白鳥よ
 清き心の 白鳥よ
 いづこより来し
 緑の丘に
 青春 二歳 誉れあり
 平和語りて
 いつの日か
 ああ幸福の華開く

 白鳥よ
 澄みし瞳の 白鳥よ
 いづこより来し
 理想の庭に
 青春 二歳 誉れあり
 心鍛えて
 いつの日か
 ああ大空へ舞い上る

 この歌に高らかに歌い上げられているように、皆さん方にとっては、この短大での「青春二歳」が、かけがえのない「人生の誉れの英雄時代」なのであります。
 二女のエーヴ・キュリーは、母親の学生時代について、「彼女がつねに仰望(ぎょうぼう)した人間の使命の最高峰にもっとも近い、もっとも完全な時代であった」(前掲、川口篤ほか訳)と述べています。
 猛勉強の結果、マリーは、1893年に物理学の学士試験を1番で、翌年は数学の学士試験を2番で合格しました。
 「激しいぜいたくと富への欲望の支配する我々の社会は学問の値打を理解しない」(ウージェニィ・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』岩波新書
 これは、マリーの慨嘆です。今は残念ながら、マリーの時代以上に、そうした風潮に満ちているかもしれません。
 しかし、だからこそ、わが短大の真剣な向学と薫陶の校風が、清々しく光ります。
 マリーは、勉学に明け暮れた屋根裏部屋を「いつまでも 変わらずたいせつな 心の部屋」と謳いました。
 「そここそ ひとりひそやかに挑み その身を鍛えつづけた場
 今もあざやかな いくつもの思い出にいろどられた世界」と振り返っているのです(前掲、河野万里子訳)。
 悩みに直面したときに、立ち返ることのできる原点をもった人生は、行き詰まらない。この短大のキャンパスは、皆さん方の永遠の前進と勝利の原点の天地です。

 学問に王道なし
 一、短大の「文学の庭」には、マリー・キュリー像に向かい合うようにして、ハナミズキの木が植えられています。
 桜花の季節が終わると、そのバトンを託されたように、ハナミズキが一斉に開花して、行き交う新入生たちの心を明るく照らします。
 これは、キュリー像が除幕された1カ月後、あのアメリカの人権の母、ローザ・パークスさんが来学され、記念植樹してくださった木です。
 1992年、創価大学ロサンゼルス分校(当時)を訪問したパークスさんを、語学研修中だった短大生が歓迎しました。パークスさんは、この出会いを、生涯の宝とされておりました。
 「彼女たちとの出会いは、私の一生における新しい時代の始まりを象徴するように思えてなりません」とまで語っておられました。
 その2年後、誕生したばかりのキュリー像が見守るなか、パークスさんが八王子の短大と創価大学を訪れました。
 キャンパスを案内したとき、「万葉の家」のそばで、私の言葉が刻まれた石碑を、じっと見つめておられた姿が印象的だったそうです。
 この言葉を、今ふたたび、皆さんに贈ります。
「学問に王道なし
 故に学びゆく者のみが
 人間としての 王者の道を征くなり」
     (つづく)

創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る 2〔完〕


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