2008年2月18日 聖教新聞 創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る-3-1

2008年2月18日 聖教新聞
創価女子短期大学 特別文化講座
創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る-3-1

わが母校 見つめて勝ちゆけ 我が友と

人間の本当の美しさ──それは生命が放つ光彩
 理想をめざして打ち込む生命こそ、最も尊い

 一、私が家族ぐるみで親しく交流させていただいた方に、「現代化学の父」ライナス・ポーリング博士がおられます。博士はキュリー夫人に続き、二つのノーベル賞を受賞した知の巨人です。
 1990年、創価大学のロサンゼルス分校(当時)で、研修中だった短大生と一緒にポーリング博士を歓迎しました。
 「笑顔で迎えてくださり、うれしい。こちらまで笑顔になります」と、博士は喜色満面であられた。
 ポーリング博士は若き日、夫妻でヨーロッパに行き、マリー・キュリーのもとを訪問することを考えていたようですが、実現はしませんでした。
 ポーリング博士も、マリーと同じく、幼き日に親を亡くしています。〈9歳で父が急死〉
 病弱なお母さんや、妹たちを抱え、経済的にも苦しい」若き博士は、道路舗装の検査員など、さまざまな仕事をして家族を支えながら、忍耐強く努力を貫き通し、自分自身を鍛え上げた。そして、苦学に苦学を重ねて、世界的な業績を残していかれたのです。
 心強き人にとって、苦労は、ただの苦労で終わらない。苦労は「宝」である。
 学生時代の労苦を振り返って、博士は「どうしても一生懸命に長時間働く必要があったので、懸命に長時間働く習慣が身についたことはプラスだと思います」と、さわやかに語っておられました。
 ポーリング博士が受けた二つのノーベル賞は、「化学賞」と「平和賞」です。博士の核廃絶と平和への貢献は、最愛のエバ夫人と一体不二の戦いでした。
 「私が平和運動を続けてきたのは──『妻から変わらぬ尊敬を得たい』と思ったからでした」
 そう率直に語っておられた博士の声が蘇ります。
 崇高な理想に結ばれた夫婦──ポーリング夫妻も、そしてキュリー夫妻も、まさしくそうでした。

 正義の人を正しく評価
 一、マリーがピエール・キュリーと初めて出会ったのは、1894年の春のことです。マリーは26歳、ピエールは35歳でした。
 このときすでにピエールは、物理学の世界で、いくつかの重要な業績をあげていました。しかし、いわゆる有名校を出ていなかったため、国内ではあまり評価されていなかった。
 ピエールは生涯を通じて、名声を得ようとか、自分を売り込もうとか、少しも考えなかった人です。"評価されるのは誰であれ、人類のために科学が発展しさえすればいい"という高潔な信念の持ち主でした。
 しかし、心ある人は、ピエールの力と功績を知っていました。英国の大物理学者ケルビン卿など、具眼の士から、特に国外で高く賞讃されていたようです。
 ケルビン卿は、あのグラスゴー大学の教授でありました。
 グラスゴー大学は、名もなき職人ワットを擁護し、ワットは「蒸気機関」を開発。産業革命の新時代を開く原動力となりました。
 グラスゴー大学には、いかなる偏見や風評にも左右されず、正義の人を正しく評価せずにはおかないという信念の気風が脈打っています。
 マリー・キュリーは、このグラスゴー大学をはじめとする世界の大学・学術機関から、21の名誉博士号・名誉教授称号を受けています。〈創立者には1994年6月、グラスゴー大学から名誉博士号が贈られている〉
 ピエールは、自然を深く愛する人物でした。文化の国・フランスへの感謝を込めて私が創立したヴィクトル・ユゴー文学記念館はビエーブルにありますが、ビエーブル川周辺の森も、よく散策していたようです。
 ピエールもマリーも、過去に恋愛で苦い経験をしており、二人とも、そうしたことには重きを置いていませんでした。学問こそが、二人の恋人でした。しかし、出会ったときから、お互いの中にある、崇高な、その魂に気づいたのです。
 二人は、科学に関する語らいや、手紙のやりとりなどを通じて、お互いへの尊敬の念を深めていきました。
 しかし、生まれた国が違うなど、いくつかの障害もありました。特にマリーには、祖国ポーランドに帰って、同胞のために尽くしたいという願いがありました。
 結婚に際しては、ピエールのほうが強い熱意を持っていたようです。
 二女のエーヴは、母の美しさについて、「ほとんどなにもないような小部屋で、着古した服に身をつつみ、情熱に輝く意志の強い面差しのマリーほど、美しく見えたものはなかった」(河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)と綴っております。それは「内面の精神性」の輝きであり、自らの力で勝ち取った深き人格の美しさでもありました。
 人間の本当の美しさ、それは「生命」それ自体の光彩でありましょう。大いなる理想を目指して真剣に打ち込む生命こそ、この世で最も美しい光を放つのです。

 理想主義から精神的な力が
 一、牧口先生は、「遠大な理想をいだき、目的観を明確にしながら、身近な足もとから実践するのが正視眼的生活である」と訴えておられます。マリーは、この「正視眼」を持った女性でした。
 のちに長女のイレーヌは、母マリーの結婚観は「生活のよき伴侶となれる夫が見つかったときにだけ、結婚すべきであるという考えでした」(内山敏訳『わが母マリー・キュリーの思い出』筑摩書房)と書いています。
 さらにまた、マリーは、二女のエーヴに、このように書き送りました。
 「わたしたちは理想主義のなかで、精神的な力を求めていくべきだと思います。
 理想主義によって、わたしたちは思いあがることなく、自分のあこがれや夢の高みに達することもできるのです。
 人生の関心のすべてを、恋愛のような激しい感情にゆだねるのは、期待はずれに終わると、わたしは思っています」(前掲、河野万里子訳)
 真摯に人生を生き抜くなかで深めてきた恋愛観であり、結婚観であるといってよいでしょう。
 この点、私の恩師の基準は明快でした。
 「恋愛をしたことによって両方がよくなれば、それはいい恋愛だ」「両方が駄目になってゆくようであれば、それは悪い恋愛だ」と。

 信念を深く共有した結婚
 一、マリーは自ら書いたピエールの伝記の中で、科学の発展に生涯を捧げた大学者パスツールの次の言葉を引いています。
 「科学と平和とが無知と戦争とにうち勝つであろう」(渡辺慧訳『ピエル・キュリー伝』白水社
 この言葉は、二人の共通の信条とも言えるものでした。
 信念を深く共有できたからこそ、ピエールとマリーは結婚を決めたのでありましょう。
 結婚のため、マリーはずっとフランスで暮らすことになりましたが、ポーランドの実家の家族は、皆、心から祝福してくれました。
 結婚という、人生の大きな決断をする際には、お父さんやお母さん、そして、よき先輩や友人と、よく相談して、皆から祝福される、賢明な新出発を心がけることが大切です。
 ピエールとマリーの結婚は、1895年の7月26日でした。
 結婚式は、親しい家族や友人だけで祝う清々しい集いでした。
 豪華な衣装も、ごちそうも、結婚指輪もありませんでした。
 二人とも、財産といえるようなものは何も持っていなかった。しかし、そこには誠実な心が光り、聡明な知恵が冴えわたっていました。
 "新婚旅行"は、自転車に乗って、フランスの田園地帯を駆け回ることでした。
 そして、多くはない収入でやりくりするための家計簿を買ったのです。
 私と妻の結婚に際しても、恩師からアドバイスをいただいたことの一つは、「家計簿をつけること」でした。現実の生活を、一歩一歩、賢明に、堅実に固めていった人が、勝利者です。
 マリーとピエールの二人の新生活は、めぼしい家具など何一つない、質素なアパートで始まりました。
 「わたくしたちは、そこで生活し、そして仕事をすることのできる小さな一隅以上のものは望んでいませんでした」(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)と、マリーは綴っています。

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