2008年2月26日付 聖教新聞 全国各部協議会での名誉会長のスピーチ-1
2008年2月26日付 聖教新聞
全国各部協議会での名誉会長のスピーチ-1
一人立て! いかなる嵐も勝ち越えよ
我らは全員が大将軍
一、ご苦労さま!
楽になって、聞いていただきたい。
きょう(22日)は、午前中に中国の唐家●(※)(せん)国務委員と懐かしい再会を果たした。続いて、後継の皆様と、有意義に語り合いたい。(※=王扁+旋)
きょう、誕生日の人? また、お母さんが誕生日の人は?〈会場から何人か手が挙がる〉
おめでとう!(大拍手)
青年を、どう育てるか。どう、いい人材を伸ばすか。どうしたら、一生の勝利の原点を刻み、信心の宝の思い出をつくってあげられるか。
私はいつも、そのために祈り、あらゆる智慧をめぐらせ、全生命を捧げている。
そこにこそ、指導者の責務があるからだ。
ほんの一つの言葉でも、勇気の光を贈ることができる。
一人が感動し、歓喜し、希望に燃えて立ち上がれば、その波動は、一家へ、地域へと広がっていくにちがいない。
形ではない。大事なのは、心だ。リーダーが、強き信心に立てば、新しき地涌の陣列がわき出てこないわけがない。
だれよりも、まずリーダー自身が、人間革命し、生まれ変わって、祈り、語り、書き、走り、正義を叫び抜いていくことだ。
後継の君よ! あなたよ!
あのキュリー夫人のごとく、革命に生きたローザ・ルクセンブルクのごとく、人類愛を歌ったシラーのごとく──歴史に名を残した偉人たちのごとく、勝利の劇の一生を!
そして、永遠に輝きわたる師弟の金字塔を、晴れ晴れと打ち立てていただきたいのだ。
青年を伸ばせ!
一、3・16「広宣流布記念の日」の50周年を前に、女子部の皆様に和歌を贈りたい。
尊くも
師弟不二なる
前進の
貴女の勝利は
三世の功徳と
男子部の諸君には、記念に、次の言葉を贈りたい。
いざや立て!
壮大な君たち青年の
大舞台の幕が開いた
青年の時代だ。皆、頑張れ!
私も、32歳から創価学会の会長を務めた。時代を先取りする手を、戸田先生は打たれたのだ。
私が会見する予定だった、アメリカのケネディ大統領が就任したのは、43歳の時であった。
ともすれば人は、年をとると、守りに入る。ずるくなり、口先だけの要領に走る者もいる。名聞名利にとらわれれば、もう信心ではない。
青年が大事だ。青年は、人まかせにしたり、すぐに威張ったり、そんなリーダーになってはならない。
また、いくら口がうまくても、行動が伴わなければ、意味がない。
皆に優しくし、皆に好かれる、人柄のいい指導者になってもらいたい。
今の苦労は、すべてが未来のための訓練だ。
時を惜しんで学ぶのだ。
世界でも、若き指導者が各界に躍り出ている。もうすでに、新しい時代は始まった。
立場が上になるほど、自分に厳しく、油断せず、慢心を排して、わが尊き使命を全うしていただきたい。
ドイツの劇作家シラー
「要するに勇気だよ勇気!」
同志の苦しみを背負って立て!
一、今や、世界的な学会となった。
すべて、私と不二の心で戦ってくださった、尊き父母のおかげである。
若き諸君は、できあがった組織の上にあぐらをかいて、ふんぞり返っては絶対にならない。
インド独立の父マハトマ・ガンジーは戒めた。
「細かい心づかいをしていないで、他人に命令をくだしても、うまくいかないのである」
「ところが、指導者自身が召使いになっているところでは、指導権をねらう競争相手もなくなってしまうのである」(鳩山芳郎訳「ガンジー自叙伝」、『世界の名草77』所収、中央公論新社)
人々に尽くすのが、新時代の指導者だ。
広布の同志は、皆、仏子である。話す時にも、決して、ぞんざいな言い方ではなく、「〇〇さん」と尊敬を込めて呼びかける。それが本当の指導者の姿である。
ロシアの文豪ドストエフスキーは、作品の登場人物に、こう語らせた。
「他人に対してもっとやさしく、もっと気を使い、もっと愛情を持つことです。他人のために自分を忘れること、そうすればその人たちもあなたを思い出してくれます。
自分も生き、他人をも生かすようにする──これがわたしの信条です!」(小沼文彦訳「スチェパンチコヴォ村とその住人」、『ドストエフスキー全集2』所収、筑摩書房)
皆のために、指導者がいる。威張るためにいるのではない。
同志を幸せに!
同志の苦しみを背負って、自分が一切の労苦を背負って、勝利の道を開いていく──この決心を忘れぬ一人一人であってもらいたいのだ。
次の50年を担いゆく皆様に、シラーが綴った言葉を贈りたい。
「要するに勇気だよ、勇気!」(濱川祥枝訳『ヴァレンシュタイン』岩波文庫)
戸田先生は、よく言われていた。「慈悲といっても、なかなか出ない。慈悲に代わるものは勇気である」と。
勇気の宝剣を持つのだ。勇気こそ、いかなる困難をも乗り越え、広布を前進させゆく力なのである。
希望を失うな
一、ローザ・ルクセンブルクは、軍国主義と戦った、勇敢な女性であった。経済学者、教育者でもあった。度重なる投獄にも屈せず、平和と正義の理想を貫き通した。
かつて夏季講習会で、凛々しき女子学生の方々が「折伏のローザ」という歌を歌ってくださったことがある。ローザ・ルクセンブルクの名前にちなんだ歌である。(1969年(昭和44年))
その女子学生たちは、「青春勇舞会」として、今、婦人部で立派に活躍されている。
ローザ・ルクセンブルクは、獄中から、友を励ます手紙を送っている。
「どんなことがあっても、人は希望を失ってはいけません。あらゆる苦しみをお笑いなさい」
「どんなことがあっても元気を出して、頭を高く上げていらっしゃい!」(伊藤成彦訳『友への手紙』論創社)
この言葉を、敬愛する女子部の皆様に贈りたい。世界一の希望をもって、世界一幸福な女性と輝いていっていただきたい(大拍手)。
恩を知るのが人間の道
一、きょうは「恩」について語っておきたい。
報恩は、人間の道である。恩を知らないのは、畜生にも劣る。
戸田先生は言われていた。
「人として恩を知り、恩を報ずればこそ、他の動物と異なるゆえんがある」
「恩を知らず、恩を報ぜざるは、じつに、人にして人に非ざるものである」
恩について、戸田先生は、何度も何度も強調されていた。
「昔は、恩のためなら命を捨てる人間がいたので、大聖人の御書にも、そういう人間が説かれている。しかし、受けた恩のために命を捨てるような人間は、今の世にはいない」とも嘆いておられた。
「報恩」は仏法の真髄である。「報恩」の心は、最強の「善」と「正義」の力である。
逆に、「忘恩」は人間の道に反する。善なる人を苦しめ、正義を破壊する。
古代ローマの哲人セネカは述べている。
「すべての悪もまた恩知らずに由来していて、恩知らずがなければ、どんな大罪もそれほど重大なものにはならなかった」(小川正廣訳「恩恵について」、『セネカ哲学会集2』所収、岩波書店)
また、御書には「恩を知らない人間となって、後生に悪道に堕ちられることがかわいそうでならない」(895ページ)と仰せである。
恩知らずは、最後は必ず、厳しき敗北の末路となることは、絶対にまちがいない。
いざや立て!青年の時代だ
正義と報恩の人生を
古代ローマの哲人セネカ すべての悪は恩知らずから生まれる
師弟不二!父子の誓いを忘るるな
難こそ誉れ
一、日蓮大聖人は、全人類の幸福の道を開くために、命にも及ぶ大難を耐え忍ばれた。
こう仰せである。
「心ある人々は、(大聖人が大難を一身に受けていることは)『私たちのためである』と思うべきである。
もし『恩』を知り、心ある人々であるならば、(大聖人が)二回、杖で打たれるならば、そのうち一回は代わって受けるべきではないだろうか。
それもしないどころか、反対に、(大恩ある大聖人に)怨をなそうなどとされるとは、まったく、どうしたわけであろうか」(御書1450ページ、通解)
このように人に話していきなさいと、大聖人は門下に教えられたのである。
師とともに難に立ち向かう。仏法者として、これほどの誉れはない。喜びはない。
これが戸田先生の叫びであり、私の覚悟であった。
大難の時こそ、師を守り抜く。師にかわって難を受け、未来を開く──この師弟の精神があったればこそ、だれも想像しなかった、今日の学会の大発展がある。
戸田先生は、同志に、こう師子吼された。
「諸君、恩師・牧口先生の悲願をわれわれのものとせよ! 信心に対する半信半疑を捨てよ!
正しき宗教の力でこそ、国も救い、民衆も救える。この大信念をもって、広宣流布の戦いに入ろうではないか!」
青年は一生涯、崇高なる「正義」と「報恩」の人生を生きて生きて生き抜いていただきたい。
我らには、広宣流布の大使命があるのだ。
学会は、信心の世界である。仏法の世界である。師弟の世界である。平和の世界である。善の世界である。
私とともに進もう!
この麗しき人間主義の世界を、地球上に、力強く広げてまいりたい(大拍手)。
全国各部協議会での名誉会長のスピーチ-2に続く
ブログ はればれさんからのコピーです。
全国各部協議会での名誉会長のスピーチ-1
一人立て! いかなる嵐も勝ち越えよ
我らは全員が大将軍
一、ご苦労さま!
楽になって、聞いていただきたい。
きょう(22日)は、午前中に中国の唐家●(※)(せん)国務委員と懐かしい再会を果たした。続いて、後継の皆様と、有意義に語り合いたい。(※=王扁+旋)
きょう、誕生日の人? また、お母さんが誕生日の人は?〈会場から何人か手が挙がる〉
おめでとう!(大拍手)
青年を、どう育てるか。どう、いい人材を伸ばすか。どうしたら、一生の勝利の原点を刻み、信心の宝の思い出をつくってあげられるか。
私はいつも、そのために祈り、あらゆる智慧をめぐらせ、全生命を捧げている。
そこにこそ、指導者の責務があるからだ。
ほんの一つの言葉でも、勇気の光を贈ることができる。
一人が感動し、歓喜し、希望に燃えて立ち上がれば、その波動は、一家へ、地域へと広がっていくにちがいない。
形ではない。大事なのは、心だ。リーダーが、強き信心に立てば、新しき地涌の陣列がわき出てこないわけがない。
だれよりも、まずリーダー自身が、人間革命し、生まれ変わって、祈り、語り、書き、走り、正義を叫び抜いていくことだ。
後継の君よ! あなたよ!
あのキュリー夫人のごとく、革命に生きたローザ・ルクセンブルクのごとく、人類愛を歌ったシラーのごとく──歴史に名を残した偉人たちのごとく、勝利の劇の一生を!
そして、永遠に輝きわたる師弟の金字塔を、晴れ晴れと打ち立てていただきたいのだ。
青年を伸ばせ!
一、3・16「広宣流布記念の日」の50周年を前に、女子部の皆様に和歌を贈りたい。
尊くも
師弟不二なる
前進の
貴女の勝利は
三世の功徳と
男子部の諸君には、記念に、次の言葉を贈りたい。
いざや立て!
壮大な君たち青年の
大舞台の幕が開いた
青年の時代だ。皆、頑張れ!
私も、32歳から創価学会の会長を務めた。時代を先取りする手を、戸田先生は打たれたのだ。
私が会見する予定だった、アメリカのケネディ大統領が就任したのは、43歳の時であった。
ともすれば人は、年をとると、守りに入る。ずるくなり、口先だけの要領に走る者もいる。名聞名利にとらわれれば、もう信心ではない。
青年が大事だ。青年は、人まかせにしたり、すぐに威張ったり、そんなリーダーになってはならない。
また、いくら口がうまくても、行動が伴わなければ、意味がない。
皆に優しくし、皆に好かれる、人柄のいい指導者になってもらいたい。
今の苦労は、すべてが未来のための訓練だ。
時を惜しんで学ぶのだ。
世界でも、若き指導者が各界に躍り出ている。もうすでに、新しい時代は始まった。
立場が上になるほど、自分に厳しく、油断せず、慢心を排して、わが尊き使命を全うしていただきたい。
ドイツの劇作家シラー
「要するに勇気だよ勇気!」
同志の苦しみを背負って立て!
一、今や、世界的な学会となった。
すべて、私と不二の心で戦ってくださった、尊き父母のおかげである。
若き諸君は、できあがった組織の上にあぐらをかいて、ふんぞり返っては絶対にならない。
インド独立の父マハトマ・ガンジーは戒めた。
「細かい心づかいをしていないで、他人に命令をくだしても、うまくいかないのである」
「ところが、指導者自身が召使いになっているところでは、指導権をねらう競争相手もなくなってしまうのである」(鳩山芳郎訳「ガンジー自叙伝」、『世界の名草77』所収、中央公論新社)
人々に尽くすのが、新時代の指導者だ。
広布の同志は、皆、仏子である。話す時にも、決して、ぞんざいな言い方ではなく、「〇〇さん」と尊敬を込めて呼びかける。それが本当の指導者の姿である。
ロシアの文豪ドストエフスキーは、作品の登場人物に、こう語らせた。
「他人に対してもっとやさしく、もっと気を使い、もっと愛情を持つことです。他人のために自分を忘れること、そうすればその人たちもあなたを思い出してくれます。
自分も生き、他人をも生かすようにする──これがわたしの信条です!」(小沼文彦訳「スチェパンチコヴォ村とその住人」、『ドストエフスキー全集2』所収、筑摩書房)
皆のために、指導者がいる。威張るためにいるのではない。
同志を幸せに!
同志の苦しみを背負って、自分が一切の労苦を背負って、勝利の道を開いていく──この決心を忘れぬ一人一人であってもらいたいのだ。
次の50年を担いゆく皆様に、シラーが綴った言葉を贈りたい。
「要するに勇気だよ、勇気!」(濱川祥枝訳『ヴァレンシュタイン』岩波文庫)
戸田先生は、よく言われていた。「慈悲といっても、なかなか出ない。慈悲に代わるものは勇気である」と。
勇気の宝剣を持つのだ。勇気こそ、いかなる困難をも乗り越え、広布を前進させゆく力なのである。
希望を失うな
一、ローザ・ルクセンブルクは、軍国主義と戦った、勇敢な女性であった。経済学者、教育者でもあった。度重なる投獄にも屈せず、平和と正義の理想を貫き通した。
かつて夏季講習会で、凛々しき女子学生の方々が「折伏のローザ」という歌を歌ってくださったことがある。ローザ・ルクセンブルクの名前にちなんだ歌である。(1969年(昭和44年))
その女子学生たちは、「青春勇舞会」として、今、婦人部で立派に活躍されている。
ローザ・ルクセンブルクは、獄中から、友を励ます手紙を送っている。
「どんなことがあっても、人は希望を失ってはいけません。あらゆる苦しみをお笑いなさい」
「どんなことがあっても元気を出して、頭を高く上げていらっしゃい!」(伊藤成彦訳『友への手紙』論創社)
この言葉を、敬愛する女子部の皆様に贈りたい。世界一の希望をもって、世界一幸福な女性と輝いていっていただきたい(大拍手)。
恩を知るのが人間の道
一、きょうは「恩」について語っておきたい。
報恩は、人間の道である。恩を知らないのは、畜生にも劣る。
戸田先生は言われていた。
「人として恩を知り、恩を報ずればこそ、他の動物と異なるゆえんがある」
「恩を知らず、恩を報ぜざるは、じつに、人にして人に非ざるものである」
恩について、戸田先生は、何度も何度も強調されていた。
「昔は、恩のためなら命を捨てる人間がいたので、大聖人の御書にも、そういう人間が説かれている。しかし、受けた恩のために命を捨てるような人間は、今の世にはいない」とも嘆いておられた。
「報恩」は仏法の真髄である。「報恩」の心は、最強の「善」と「正義」の力である。
逆に、「忘恩」は人間の道に反する。善なる人を苦しめ、正義を破壊する。
古代ローマの哲人セネカは述べている。
「すべての悪もまた恩知らずに由来していて、恩知らずがなければ、どんな大罪もそれほど重大なものにはならなかった」(小川正廣訳「恩恵について」、『セネカ哲学会集2』所収、岩波書店)
また、御書には「恩を知らない人間となって、後生に悪道に堕ちられることがかわいそうでならない」(895ページ)と仰せである。
恩知らずは、最後は必ず、厳しき敗北の末路となることは、絶対にまちがいない。
いざや立て!青年の時代だ
正義と報恩の人生を
古代ローマの哲人セネカ すべての悪は恩知らずから生まれる
師弟不二!父子の誓いを忘るるな
難こそ誉れ
一、日蓮大聖人は、全人類の幸福の道を開くために、命にも及ぶ大難を耐え忍ばれた。
こう仰せである。
「心ある人々は、(大聖人が大難を一身に受けていることは)『私たちのためである』と思うべきである。
もし『恩』を知り、心ある人々であるならば、(大聖人が)二回、杖で打たれるならば、そのうち一回は代わって受けるべきではないだろうか。
それもしないどころか、反対に、(大恩ある大聖人に)怨をなそうなどとされるとは、まったく、どうしたわけであろうか」(御書1450ページ、通解)
このように人に話していきなさいと、大聖人は門下に教えられたのである。
師とともに難に立ち向かう。仏法者として、これほどの誉れはない。喜びはない。
これが戸田先生の叫びであり、私の覚悟であった。
大難の時こそ、師を守り抜く。師にかわって難を受け、未来を開く──この師弟の精神があったればこそ、だれも想像しなかった、今日の学会の大発展がある。
戸田先生は、同志に、こう師子吼された。
「諸君、恩師・牧口先生の悲願をわれわれのものとせよ! 信心に対する半信半疑を捨てよ!
正しき宗教の力でこそ、国も救い、民衆も救える。この大信念をもって、広宣流布の戦いに入ろうではないか!」
青年は一生涯、崇高なる「正義」と「報恩」の人生を生きて生きて生き抜いていただきたい。
我らには、広宣流布の大使命があるのだ。
学会は、信心の世界である。仏法の世界である。師弟の世界である。平和の世界である。善の世界である。
私とともに進もう!
この麗しき人間主義の世界を、地球上に、力強く広げてまいりたい(大拍手)。
全国各部協議会での名誉会長のスピーチ-2に続く
ブログ はればれさんからのコピーです。