2008年2月27日 聖教新聞 創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る-5-1

2008年2月27日 聖教新聞
創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る-5-1

短大生 一人ももれなく 幸福王女たれ

知性と福徳豊かな女性に!

 一、1995年の4月20日、フランス・パリのパンテオン(偉人廟(いじんびょう))は、いつにもまして、厳粛な空気に包まれていました。
 キュリー夫妻の棺を、それまで埋葬されていたパリ郊外のソーの地より、パンテオンへ移す式典が執り行ゎれたのです。
 多くの列席者を前に、フランスのミッテラン大統領が、厳かに語り始めました。
 「ピエール・キュリーマリー・キュリーの遺骸を、わが国共通の記憶を祭る神殿に再葬することによって、フランスはただ単に感謝を表するだけでなく、科学と研究ヘの信頼を表明し、かつてのピエールとマリー・キュリーのように、科学に人生を捧げる人々、および、その力と人生に尊敬の念を表明するものであります」
 壇上には、来賓として、マリーの祖国ポーランドワレサ大統領が座っています。ピエールとマリーの子孫たちも列席しています。
 かつて私は、ミッテラン大統領とも、そしてワレサ大統領とも会談いたしました。ミッテラン大統領とは、89年6月、パリのエリゼ宮(フランス大統領府)で親しく語り合いました。
 夫妻が眠ることになったパンテオンは、不思議にも、マリーが創設したラジウム研究所と、二人が努力の末にラジウム抽出に成功した粗末な建物があった場所との間にあります。

 女性で初めて「偉人廟」に
 一、ミッテラン大統領は、言葉を続けました。
 「本日の式典は、その独自の功績により歴史上最初の女性がパンテオンに入るという点で、とくに輝きわたるものであります」
 そうです。マリーは、パンテオンに列せられた初めての女性なのです。
 キュリー夫妻は今、ユゴー、デュマ、ヴォルテール、ルソー、ゾラ、そして私が対談集を発刊したアンドレ・マルローといった、歴史的偉人たちとともに眠っています。
 2003年、EU(欧州連合)は、すぐれた科学者を顕彰する「マリー・キュリー賞」を創設しました。
 マリー・キュリーは、フランス、ポーランドのみならず、ヨーロッパが最大に誇る人物として、揺るぎない存在となっているのです。
 強く生き抜き、数々の業績を残したマリーの人生を思うとき、彼女のことを、剛毅な性格と冷徹な頭脳の持ち主のように想像する人もいるかもしれません。
 しかし、実際の彼女は、人一倍、繊細な感受性をもち、他者の苦しみを思いやる、優しい心の女性でした。
 ただ彼女は、不正と妥協すること、横暴な権威に屈することが、どうしてもできない──そういう女性だったのです。

キュリー夫人の信念
 正しければそれを行わなければならない。
 たとえ、それを妨げる無数の理由があろうとも

 「短大生の姿に活躍を確信」
 一、一昨年の6月、アメリカの著名な女性詩人で、アメリカ・エマソン協会会長のワイダー博士が、創価女子短大を訪問され、講演でこう語られました。
 「女性は簡単に恐怖に負けたりはしません。女性は、心身でも精神でも強いものです。
 また何かを恐れているような贅沢な時間はありません。人々に安らぎを与えるために時間を使わねばならないからです。
 こうした強い女性たちのことを思うならば、恐怖に負けて降参する時間などないことがわかります。
 多くの女性たちは、平和と正義の声を大にして、世界へ訴えかけています」
 まさにマリー・キュリーは、自ら信ずる正義のために、断固として生き抜いた女性でした。
 このワイダー博士をはじめ、わが創価女子短大に来学された多くの世界の識者が、短大生の姿に触れて、感動の声を寄せてくださっております。
 昨年9月に短大を訪問した、国立南東フィリピン大学のオルティス前学長は「短大生の溌剌とした姿を拝見して、日本の未来における女性の活躍も目覚ましいものになることを強く確信しました」と語られました。

 「思いやりのある世界を」
 一、また、1995年の春3月に短大を訪れた、エジプトのスザンヌムバラク大統領夫人は、「知性と福徳ゆたかな女性」「自己の信条をもち人間共和をめざす女性」「社会性と国際性に富む女性」と掲げた、短大の「建学の指針」に触れて、強調されていました。
 「女子短大の崇高な建学の精神にある資質を、未来の世代が身につけるなら、この世界を、人類にとって、はるかに善い、思いやりのある場所にできるにちがいありません」と。
 ワイダー博士も、この短大の指針を「世界が求める真実のリーダーシップの姿」と賞讃し、「ともに自分たちの強さを確信しながら、『完全に平和な道』を進んでいきましょう」と短大生に語られました。
 世界の多くの識者が、短大の建学の指針に「女性の世紀」の指標を見いだし、この指針を体現した皆さん方に希望を託しているのです。
 「あることが正しければ、それを行わなければならない。たとえ、それをすることを妨げる無数の理由があろうとも」(ウージェニィ・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』岩波新書)──これがマリーの信条でした。
 彼女が生きた時代は、女性が自らの信念にしたがって生きていくには、あまりにも多くの障害がある時代でした。
 少女のころは、とても内気で、人見知りだったマリー。しかし、このマリーが、あとに続く女性たちのために、大きく道をつくり、開いていったのです。

 道を開いた女性
 一、マリーがパリ大学に入学したころ、9000人の男子学生に対し、女子学生は210人しかいなかったとも言われています。
 姉のブローニャがパリ大学の医学部を卒業したとき、数千人の卒業生のなかで、女性はたったの3人でした。
 しかもフランス人の女子学生は、まったくといっていいほどいなかった。19世紀末のパリでは、女性が付き添いなしで、一人で外出することすら、常識はずれのことと考えられていたようです(スーザン・クイン著、田中京子訳『マリー・キュリー白水社を参照)。
 しかし、そうした社会のなかで、マリーは「一人の人間」として、敬意を勝ちとっていきました。マリーの努力と英知、人格と業績が、女性への差別や偏見を一つ一つ打ち破っていったのです。
 マリー・キュリーの生涯を見ると、「女性初」という形容詞が、随所に見受けられます。
 女性初の高等師範学校の教師、女性初のノーベル賞受賞、女性初のパリ大学教授、女性初の医学学士院会員......等々。
 そして、そうした業績は、「初」であるからこそ、妬みによる非難や、反動勢力からの迫害に、常につきまとわれていたのです。
 皆さん方の先輩のなかにも、「短大初」という栄光と重責を毅然と担い立って、後輩の道を切り開いてくれた方々が、たくさんおられます。

 反動勢力との永遠の戦い
 一、1910年、マリー・キュリーの科学学士院会員選挙の際、女性の社会進出に抵抗する人々が、こぞって反対の運動を展開しました。
 科学上の業績から言えば、マリーは、会員となることに、まったく問題はありませんでした。
 ただ、マリーが「女性」で「外国人」であること、それが大きな反対の理由となったのです。
 数学者のアンリ・ポアンカレなど、著名な科学者がマリーを支援しましたが、マリーの就任を執拗なまでに妨害する人々がいました。
 マリーを中傷する、卑劣なキャンペーンが行われました。狂信的な右派の新聞は、マリーと、彼女を応援する人々を口汚く罵りました。
 1回目の投票で過半数に届かず、2回目の投票が行われました。そして、マリーは2票の差で落選しました。
 彼女は、落選しても悠然としていました。
 もともと、学士院に立候補の手紙を送ってはいなかった。慣例となっている会員への訪問を熱心に行ってもいなかった。
 名声などには、ほとんど無関心だったのです。
 しかし、科学の業績ではなく、女性を会員にするかどうかという問題ばかりが話題にされたことを残念に思っていたのではないでしょうか。
 長女のイレーヌによれば、マリーは「社会進歩のための闘争」が必要であると常に語っていました。そして、その闘争を「反動派」に対する「永遠の戦い」と名づけていたそうです (前掲、『キュリー家の人々』を参照)。

創立者 永遠に学び勝ちゆく女性 キュリー夫人を語る-5-2に続く


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