2008年8月26日付 聖教新聞  8.24記念各部合同協議会での名誉会長のスピーチ 2

2008年8月26日付 聖教新聞
8.24記念各部合同協議会での名誉会長のスピーチ 2

堂々と誠実の道 師弟の道を!
報恩は社会の闇を照らす太陽
師の理想を支えた戸田先生の苦闘
威張る者とは毅然と戦え!

一、日蓮大聖人は仰せである。
 「御みやづかい(仕官)を法華経とをぽしめせ、『一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず』とは此れなり」(御書1295ページ)
 妙法の世界は、あまりにも大きい。日々の仕事も即、信心である。ゆえに仕事で勝っていくことが即、仏法の勝負の証しとなる。

 恩師の集大成を弟子が荘厳
 一、先日、アメリカ・デューイ協会のガリソン会長、ヒックマン前会長との語らいでも話題になったが、師である牧口先生の理想への歩みを支えるために、弟子である戸田先生は実業に打ち込まれた。
 力ある事業家として、財政面から、師匠を万全に護り抜いていかれたのである。、
 1930年(昭和5年11月18日に発刊された『創価教育学体系』も、戸田先生が編集から出版まで、その一切の労を自ら買って出られた。
 戸田先生は、牧口先生に言われた。
 「牧口先生、先生の教育学を書物として発刊しましょう」
 「私の財産も全部、出します。裸一貫で北海道から出てきた私です。何も惜しむものなどありません」
 戸田先生は、その記念すべき初版本の表紙に刻まれた『創価教育学体系』の題字と、
牧口常三郎著」との師の名前を、立派な金文字で飾られた。
 これも、師の集大成の大著を少しでも荘厳しようとする戸田先生の真心であった。
 さらに戸田先生は、その2年後(1932年)には、月刊の教育雑誌「新教材集録」も創刊された。これは、牧口先生が自由に教育を論じ、公表できる場として創られたのである。
 この雑誌は3年後、「新教」と改題され、創価教育学会の機関誌となっていった。

 「師のため」に徹したから大発展
 一、その後も戸田先生は、ご自身の事業を大きく興隆させ、創価教育学会の財政面を担い支えられた。
 ただただ師匠のために──この一点に徹し切った戸田先生は、飛躍的な事業の大発展を成し遂げていかれたのである。
 戸田先生は語られている。
 「牧口先生も、財務部の事を心配されましたが、当時、理事長の位置にありました戸田が『一人でお引き受けいたします』と申し上げ、牧口先生にご心配をおかけしなかったのです」
 「当時の理事長としての私の覚悟は、会員にはいっさい心配をかけない、金はぜんぶ自分がつくるという気持ちのなかに楽しさを感じていた」と。
 戸田先生の事業は、ひとすじに広宣流布のためだったのである。
 先生の戦前の事業は、ことごとく成功した。しかし、約2年にも及ぶ、社会と隔離された獄中生活が、先生の事業家としての冴えにも、微妙な影を落としたことは、否めない。戦後の事業は、悪戦苦闘の連続となってしまった。
 ありとあらゆる次元で、戸田先生にお世話になったにもかかわらず、ひとたび先生の事業が破綻すると、卑怯な弟子たちは、恩知らずにも、先生を見限り、逃げ去った。そして、戸田先生を軽んずる幹部に追随した。
 恩知らずの人間というものは怖い。一番の功労者を、簡単に貶めるのである。

 今に見ていろ!
 一、そのとき私は、戸田先生の弟子として、師子奮迅の力で先生をお護りし抜いた。
 「今に見ていろ!」「必ず戸田先生を、世界中が知る戸田先生にしてみせる」「偉大な学会にしてみせる。わが身を犠牲にしてでも」との思いであった。事実、その通りにやってきた。波瀾万丈の日々であった。師匠に仕えることは、全学会員に仕えることと同義であった。
 すごい先生であられた。怖い先生でもあった。不正に対する先生の怒りは、言語に絶するほど、すさまじかった。
 どんな時でも私は、「何の心配もございません」と申し上げることのできる態勢を整えた。
 先生を支えるために夜学も断念したが、「戸田大学」では、万般の学問を授けていただいたのである。

負けない人が本物の人生を歩む

 イギリスの歴史家カーライルは、ゲーテに対して尽きせぬ感謝を綴っている。
 「あなたを常に私の師であり恩人であると思っています」
 「私が他の誰からよりも多く恩義を受け、誰によりも密接に結ばれている人のことを考え、しばしば口に出すのです」
 「あなたがこの世界で善を見、善をなされるために、永く永く健在であられることを私は天に祈ります」(山崎八郎訳『ゲーテ=カーライル往復書簡』岩波文庫
 私は、戸田先生のご健康、ご長寿を祈り抜いた。

 「私は戸田先生の弟子です!」
 「今日の学会をつくったのは牧口先生、戸田先生、そして私の三代の師弟である。
 "牧口先生にお供して投獄され、そして戦後の創価学会を再建なされた戸田先生を護ることが、日蓮大聖人の仏法の命脈を護ることである。広宣流布の命脈を護ることである"。このことを私は、一点の曇りもなく確信していた。
 そして、牧口先生、戸田先生の学会精神を受け継ぎ、戸田先生の苦境を脱する道を開き、第2代会長就任の道を開いていっだ。
 ある時には、「アメリカとも交流を深めて、必ず創価教育の大学をつくります」とお約束した。
 先生と学会に対して悪意の非難を浴びせたある団体を相手に、一人で抗議に行ったこともある。「私は戸田城聖先生の弟子です。真実は、こうです!」と訴え、相手も最後には「わかりました」と非を認めた。
 師匠のために戦った。ゆえに私は何の悔いもない。わが人生に誇りを持っている。
 第3代までは、信心の極理を貫いてきた。この流れを絶つ動きがあれば、絶対に許してはならない。師弟の歴史を甘く見れば、必ず失敗する。
 今は経済的にも恵まれている。人もいる。だからこそ、広宣流布の邪魔をする人間、威張る人間が出てきたときには、毅然と戦わねばならない。
 きょうは、この私の心をだれよりも深く知っている同志が集った。創価の命脈を永遠に厳讃し抜いていっていただきたい。諸君もまた、決して負けない、"本物"の人生を歩んでほしいのである(大拍手)。

"悪侶を誡めよ"
 一、太平洋戦争後、大石寺の土地は、学会の寄進によって広大になった。
 学会が建立、寄進した寺は356カ寺。本山を護るために行った登山会には、のベ7000万人が参加した。
 古代ローマの哲人セネカいわく。
 「恩知らずであることは、それ自体、避けるべき態度である」「この悪徳ほど、人類の調和を荒々しく引き裂き、打ち壊すものはない」(小川正廣訳「恩恵について」、『セネカ哲学全集2』所収、岩波書店
 御書には"無条件に坊主に従え"などとは書かれていない。"悪侶を誠めよ"と厳命されているのである。
 宗門の"衣の権威"を打ち破ったことは、結果的にすべて、不思議なる大聖人の御計らいであり、大慈大悲であったと思えてならない(大拍手)。
一、創価の道、師弟の道を、誠実に、完璧に進めば、その人は皆、生々世々、大福運の境涯となる。
 「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(御書254ページ)とは、有名な「観心本尊抄」の一節である。
 どうか、強盛なる師弟不二の信心、広宣流布の信心を、昇りゆく太陽のように輝かせていただきたい。
 そして「随緑真如」の智慧の光で、混迷する社会の深き闇を、明々と照らしていただきたい(大拍手)。
   (3に続く)

8.24記念各部合同協議会での名誉会長のスピーチ 3に続く


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