秋期彼岸勤行法要での名誉会長のスピーチ 上 2008年9月26日付 聖教新聞

2008年9月26日付 聖教新聞
秋期彼岸勤行法要での名誉会長のスピーチ 上


ゲーテ 合言葉は「戦い」そして「勝利」だ
常楽我浄の生命の旅路を
御聖訓 題目の光は全宇宙を照らす
師匠と共に 同志と共に 渡リ切れ! 幸福の彼岸へ

 一、きょうは、ありがとう!
 自分のため、地域のため、そして広宣流布の勝利のための尊い行動、毎日、本当にご苦労さまです!
 「彼岸」にあたり、ここ師弟会館に御安置されている創価学会の常住御本尊に、彼岸法要の勤行・唱題を行わせていただいた。
 全人類の宿命転換のために、勇み戦っておられる、全国、そして世界192カ国・地域の尊き同志に届けと、私は一心不乱に題目を送り続けている。
 また亡くなられた功労者の方々、さらに皆様方のご家族、そして広宣流布に連なる、すべてのご友人の先祖代々の追善回向を、本日も懇ろにさせていただいた。
 日蓮大聖人は、御義口伝で明快に仰せになられている。
 「今、日蓮と、その弟子たちが、亡くなられた聖霊を追善し、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、題目の光が無間地獄にまで至って、即身成仏させる」(御書712ページ、通解)
 この末法濁悪の現代世界にあって、大聖人の仰せ通りに、難を乗り越え、不惜身命で広宣流布に励んでいるのは、ただ創価学会の私たちだけである。
 この私たちの唱える題目には、計り知れない大功力がある。それは、生きている人々はもちろん、亡くなった方々の生命にも厳然と通ずる。
 その題目の光は、たとえ言語に絶する地獄の苦しみの生命であっても、赫々と照らして、必ず必ず即身成仏させることができると御断言なのである。
 私たちの題目の響きには、それほどの力が込められているのだ。
 御本仏の仰せは、絶対であられる。
 この一点を大確信していくならば、いかに悲しい生死の別れがあろうとも、嘆きに沈むことはない。
 生命は永遠である。三世にわたって、心を通わせていける。苦しみから救っていける。悲観や感傷をも超克しながら、「常楽我浄」の生命の旅を、ともに励まし、ともどもに歩んでまいりたい。

 真の追善は創価の和合僧の中に
 一、戸田先生は、よく語られた。
 「広宣流布のために、日夜活躍している子どもの信心の功徳によって、必ず親も成仏していけるのである」
 "坊主に拝んでもらわなければ成仏できない"などとは、御書のどこにも記されていない。
 大聖人は、親孝行の真心を尽くした女性の弟子に対して、"亡くなった、優しかったお父さまは、娘のあなたの題目の声を聞かれて仏になられるのです"と励ましておられる(同1424ページ)。
 さらに、信心に励む女性門下に、「この功徳は、あなたの父母や祖父母、さらに無量無辺の衆生にも及んでいくでしょう」(同1231ページ、通解)と教えられている。
 大聖人の仏法においては、自分自身が仏道修行に励んで成仏することが根本であり、その功徳を故人に回らし向けることが、真の追善回向になる。
 それは、大聖人の御心に寸分も違わぬ、創価学会広宣流布の和合僧の中でこそ、実現できるのだ。

 墓地革命の模範
 一、全国の13カ所の墓地公園、また各地の納骨堂でも、彼岸の法要が行われている。
 無事故の運営に当たってくださっているご関係の皆様方に、この席をお借りして、心から感謝申し上げたい(大拍手)。
 なかでも、秀麗な富士を仰ぐ富士桜自然墓地公園(静岡・富士宮市)は23日、記念すべき「950万人目」の来園者を迎えた。
 1980年(昭和55年)の秋11月に開園して以来、刻まれてきた尊い歴史である。
 また、大分の九州池田記念墓地公園は、開園3年余で、ちょうど70万人が訪れた。
 各地で墓参に見えた、信心していない親族の方々からも、清々しい墓園を愛でる声が寄せられている。
 墓石の平等性や、豊かな自然環境の保護も評価されている。さらに、地域に開かれ、郷土の繁栄に貢献していこうとする在り方に賞讃が寄せられ、識者や専門家からも"墓地革命"の模範として注目されている。
 創価の「生死不二の都」は、常に明るい希望のにぎわいである。永遠の安穏と大福徳に包まれている。
 一方、限りない大聖人の大慈悲を無残にも踏みにじったのが、日顕宗である。
 戸田先生は、厳しく喝破されていた。
 「坊主は、人々を救うためにある存在だ。
 それを、御供養といって、信者を金儲けの道具にし、何の贅沢に使ったのか。何の遊戯雑談に使ったのか。
 仏法の本義から根本的に誤った、腐った精神である。あまりにも情けない」
 これこそ、腐敗し、堕落しきった、邪宗門である。正義の学会に敵対した日顕宗の凋落は著しい。
 彼岸の墓園の姿一つ見ても、仏法の正邪は厳然と明らかである。
 「学会は勝った!晴れ晴れと勝った!」と宣言しておきたい(大拍手)。

戸田先生
広宣流布へ日夜活躍する子の信心の功徳によつて必ず親も成仏できるのだ

 毎日が「彼岸」
 一、もともと世間で言う「お彼岸」、すなわち「春分の日」「秋分の日」を中心に行われる「彼岸会」の先祖供養や墓参は、仏法本来の儀式ではない。
 法華経にも、そして御書にも、「彼岸の法要」については、まったく説かれていない。
 インド、中国にも、見られない。一説には、古来の日本の農耕儀礼が、仏教と結びついたものといわれる。江戸時代に定着して、いわゆる葬式仏教によって巧妙に利用されてさた側面が否めない。
 その点、戸田先生の見方は厳しかった。
 「われわれはみな幸福をもとめて生活している。ゆえにわれわれが真に幸福になり、平和で幸福な社会を建設するために根本的な原理となり規準となるものが宗教でなくてはならない。
 すなわち葬式とか法事などの形式が宗教なのではない」
 そもそも、日蓮仏法では、毎日の勤行・唱題が、先祖への追善回向となっている。
 毎日が彼岸である。いわば「常彼岸」なのである。
 そのうえで、学会は「随方毘尼」の法理の上から、春と秋の「彼岸」を一つの節目に、より信心を深め、仏縁を広げる機会として、追善の法要を行っているのである。(「随方毘尼」とは、仏法の本義に違わない限り、各地域の習慣や時代の風習を尊重すべきであるとする考え)
 「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、「彼岸」は、太陽を巡る地球の運行リズムの区切りでもある。
 さわやかな気候の中で、浩然の気を養いながら、縁ある方々への報恩感謝の祈りを忘れず、心新たに未来へ進みゆく出発点としていきたい。
 私は、彼岸に際しても、亡くなられた方々の追善とともに、今この時、真剣に戦っておられる同志の健康と幸福、そして、その地域・国土の繁栄を祈りに祈っている。

 「全同志を幸福の彼岸へ運ぶのだ」
 一、「彼岸」とは、「向こう側の岸」のことを指す。「此岸(こちら側の岸)」と対照をなす言葉である。
 哲学や文学においても、「此岸」を人間的な世界ととらえ、「彼岸」に「真理を悟った境地」「日常からの超越」といった意義を込めることがある。
 仏法では、生死や煩悩の渦巻く迷いの世界を「此岸」とし、成仏を勝ち取った悟りの境涯を「彼岸」ととらえる。
 また「彼岸」は、「到彼岸(彼岸に到る)」ともいい、大乗の菩薩が悟りを得るための修行を指す。
 真剣に、勇敢に、ダイナミックに、仏道修行に励みゆく、実践的な意義が込められているのが、本来の「彼岸」なのである。
 一、生死の苦悩や迷いの激流を、渡り切らなければ、「常楽我浄」の岸へと到達することはできない。
 大事なのは、「渡り切る」ことである。
 どんな修行でも、中途半端では、やり切ることはできない。
 いわんや、仏道修行という金剛不壊の仏の大生命を目指しゆく戦いにあっては、いかなる荒波があろうとも、断固として「渡り切る」ことだ。
 戸田先生は常々、「全会員、全同志を幸福の彼岸へと運ぶのだ」と叫ばれた。
 師匠とともに、同志とともに、一人ももれなく、幸福の岸へ「渡り切る」──そのための創価学会である。
 「師弟不二」「異体同心」の陣列を、未来へと広げゆくのだ。
 一、ドイツの大文豪ゲーテは綴った。
 「合い言葉は戦い/次の言葉は勝利!」(池内紀訳『ファウスト 第二部』集英社文庫
 我らは、永遠に崩れざる、民衆の幸福域の建設へ進んでいる。
 仏法は勝負である。
 今こそ「勝利」を合言葉に、一日一日、一瞬一瞬を、悔いなく、敢然と戦い切ってまいりたい(大拍手)。
    (中に続く)

秋期彼岸勤行法要での名誉会長のスピーチ 上〔完〕