2008年9月22日 聖教新聞 随筆人間世紀の光 166 わが尊き同志に贈る歌 下 山本 伸一
2008年9月22日 聖教新聞
随筆人間世紀の光 166 わが尊き同志に贈る歌 下 山本 伸一
創価の妙音を響かせ 朗らかに!
「絶対勝利の信心」に曇りなし
三世まで
共に広宣
幸の歌
「つねに全人をもって行動するならば、一つ一つの行為と言葉がどんなに力強いものになることだろう」 米国の思想家エマソンが放った鋭き言葉である。
私は必死だった。真剣だった。全身全霊を注いだ。
その日、昭和五十三年の七月二十四日。私は岡山の研修メンバーと共に、同志が用意してくれた船で、香川県庵治町の四国研修道場へ、瀬戸の海を走った。
そして、ここで行われた、夕焼け空に包まれた野外研修会で、四国の歌「我等の天地」が発表されたのだ。
なお、この夜、熊本でも、九州の歌「火の国の歌」が初披露されている。
日々、炎暑であった。その暑さにもまして、同志を護り励ますため、熱き闘魂を燃やした毎日であった。
四国研修道場で、私は、「東京の歌」の完成にも全力を注いだ。
◇
七月二十六日、船で小豆島を訪れたあと、再び岡山へ。そして翌二十七日の午後三時過ぎ、「ひかり24号」で名古屋に入った。
この日は「中部の日」。
嬉しき記念の幹部会で、中部の歌「この道の歌」が発表となった。
頬を紅潮させた中部の友が、頭を掻きながら言った。
原案で残ったのは「中部」と「この道」など、わずかな言葉だけでした、と。
私は、皆の労をねぎらいながら語った。
「『中部』をなくしたら大変だよ。私は中部に来られなくなってしまう。
『この道』もね、やはり『あの道』というわけにはいかないじゃないか」
大爆笑が広がった。
いかなる嵐があろうが、朗らかに、不撓不屈で戦い進むのだ。私と共に、師弟不二の「この道」を!
一緒に「この道の歌」を歌うなかで、わが同志の顔は輝き、師弟の心は一つにとけ合っていった。
◇
ただ中部に来て、実際に歌ってみると、歌詞を直したい個所が出てきた。
当初、「諸天舞う」とした最後の一節がそうだ。
仏典は明言している。
「必ず心の国きに仮って神の守り則ち強し」(御書一一八六ページ)
御聖訓には仰せである。
「教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき」(同一一八七ページ)
広宣流布を誓う、必死の祈りの一念は、仏天をも動かす。一切が諸天善神の働きとなる。これが、仏法の
真髄ではないか。
諸天をも叱咤し、厳命していける強い大確信の一念こそ、「絶対勝利の信心」に他ならない。
そこで、「諸天舞え」と直させていただき、七月二十八日、岐阜の東濃(とうのう)文化会館を訪問した折に、改めて大合唱したのである。
◇
「歌を作ったよ」──関西をはじめ、私からの連絡を受けた各地のリーダーたちは、"いったい、いつの間に"と驚嘆した。
波立たぬ水面下、先手先手を打ち、勝つための準備を進めていくことだ。
約二週間の師子奮迅の旅は最終盤を迎えていた。
直接、お会いした同志は二万数千人にもなった。家庭訪問も、個人指導も、行く先々で重ねた。
関西は立った。中国も、四国も、九州も立った。そして中部も立った──。
雄々しき歌声は、師弟の心を結び、電撃的に同志を鼓舞していった。
"西日本作戦"の第一波は大勝利であった。
◇
この人生
断じて負けるな
勝つための
創価の信心
決意も新たに
「次は東京だ! そして、東日本だ!」
四国で進めていた歌詞に曲がついて、東京の歌「ああ感激の同志あり」が完成したのは、七月二十八日、中部の地であった。この歌を引っ提げて、私は東京へ乗り込んだのだ。
東京の歌「ああ感激の同志あり」は八月一日、新・高等部歌「正義の走者」とともに発表された。
次いで六日には、東北の歌「青葉の誓い」が誕生。
この日、信濃町の創価女子会館に、健気な東北女子部の代表が来ていると聞き、私は、ほぼ完成していた歌に曲をつけながら、推敲を開始した。
そして、一番、二番、三番と仕上がるごとに、彼女たちに伝えていったのである。
さらに同日、山形県・米沢で行われていた「置賜(おきたま)ふるさと祭典」のために、電話で歌詞と曲が伝えられ、劇的に歌い上げられた。
この八月の前半には──神奈川に「ああ陽は昇る」、北陸に「ああ誓願の歌」、さらに、八月後半には──北海道に「ああ共戦の歌」、そして長野に「信濃の歌」を、私は贈った。
秋十月には──
「母の曲」(婦人部)
「凱歌の人生」(茨城)
「広布の旗」(埼玉)
「地涌の旗」(世田谷)
「雪山の道」(新潟)。
"創立の月"十一月は、
「誓いの友」(栃木)
「永遠の青春」(指導部)
「文化と薫れ」(山梨)
「歓喜の城光れ」(泉州)
「広布の鐘」(群馬)
「静岡健児の歌」(静岡)。
最終的に、この年、私が作った歌は、男女青年部や学生部、婦人部、壮年部の歌をはじめ、方面・県・区の愛唱歌、支部歌(練馬区の「北町広布」)等に至るまで、三十曲に及んだのである。
なお二〇〇六年には、新生九州の歌「大九州の友は晴ればれと」を贈った。
さらに、北海道の歌は、このほど、「三代城の歌」と改題し、一部加筆もして、新たな方面歌に生まれ変わった。
爽やかな秋の北海天地に、わが同志の意気軒昂なる歌声が轟いている。
◇
権力の
虚しき冠
朽ち果てぬ
民衆賞讃
王冠不滅と
昨年の十月、「世界詩歌協会」より、光栄にも私は「世界民衆詩人」の称号を拝受した。「桂冠詩人」「世界桂冠詩人」に続く栄誉である。
インドのチェンナイで行われた式典の席上、大詩人のスリニバス会長が、錚々(そうそう)たる七百人の来賓の前で語ってくださった。
「池田博士は『世界の民衆』に勇気と希望を贈り続けておられます。
博士の詩は、こう魂を揺さぶるのです。
『私たちは前進する!
着実に前進する!』と」
あまりにも有り難い、今は亡き博士の信頼と励ましにお応えして、私は世界の民衆の前進勝利の詩歌を作り、歌い続ける決心である。
◇
「私は戦闘に勝った。《ラ・マルセイエーズ》が、私とともに指揮した」
これは、フランス大革命の激動期に、一人の将軍が誇らしげに記した言葉だ。
もともとは一七九二年、無名の一将校が、戦いに臨む熱情を託して、一夜で作り上げた歌である。
大革命期の六年間で、約二千三百曲の歌が作られたといわれるが、なかでも、「ラ・マルセイエーズ」の歌の力は絶大であった。
「勝ち戦」の勢いを
わが創価の大行進にも、同じ方程式がある。
私はよく学会歌の指揮を執った。全国各地に、その黄金の思い出がある。
沖縄本部の落成式(昭和三十七年)での、「沖縄健児の歌」も忘れられない。
場外の友のため、炎天下、屋上で指揮した。
昭和四十四年の師走、病を押して訪れた和歌山では、同志の「武田節」の大合唱で舞いに舞った。皆が喜んでくれるならと、大鷲が翼を広げる如く!
創価の正義の妙音を響かせていくところ、陰険な悪党どもは震え上がる。邪悪な闇は打ち破られるのだ。 学会歌を朗らかに歌い進む時、師弟共戦の足音は勝利へ勝利へと高鳴る。
◇
戸田先生は言われた。
「どんどん新しい勢いのある歌が生まれるのは、学会発展の勝ち戦の瑞相だ」
不思議にも、新世紀、新時代を飾って、新しい歌が続々と誕生している。
神奈川の「勝利の虹」
新「創価班歌」
新「牙城会歌」
「農漁村部の歌」
「社会部の歌」
「青年教育者の歌」
「学術部の歌」
新「聖教新聞社歌」
真剣に作成に挑まれた友の祈りと奮闘を讃えたい。
特に激務のなか、作曲、編曲、そして合唱、録音等を陰で支え抜いてくれた、わが音楽隊など創価の偉大な楽雄たちに、私たちは最敬礼したいのだ。
二十世紀ベラルーシの国民詩人ヤンカ・クパーラは歌った。
「歌を創ること、
素晴らしい歌を。
その歌で
国のあらゆる人と
友情を結ぶ。
これこそ最高の宝。
我が胸に秘めしは
この願いのみ」
醜悪な策略が渦巻く時代にあって、わが学会は、常に清々しい歌声とともに勝ってきた。
いな、これからも永遠に威風堂々の歌声で、勝って、勝ちまくっていくのだ!
賑やかに
楽園の歌
うたいつつ
喜び勇んで
常勝かざれや
(随時、掲載いたします)
エマソンの言葉は『エマソン選集7』小泉一郎訳(日本教文社)。「ラ・マルセイエーズ」への賛辞は吉田進著『ラ・マルセイエーズ物語』(中央公論社)。クパーラは詩集「パブリンカ」(『全世界文学図書3 ニ十世紀文学』所収、フドージェストベンナヤ・リチェラトウーラ社)=ロシア語版。
随筆人間世紀の光 166 わが尊き同志に贈る歌 下〔完〕
随筆人間世紀の光 166 わが尊き同志に贈る歌 下 山本 伸一
創価の妙音を響かせ 朗らかに!
「絶対勝利の信心」に曇りなし
三世まで
共に広宣
幸の歌
「つねに全人をもって行動するならば、一つ一つの行為と言葉がどんなに力強いものになることだろう」 米国の思想家エマソンが放った鋭き言葉である。
私は必死だった。真剣だった。全身全霊を注いだ。
その日、昭和五十三年の七月二十四日。私は岡山の研修メンバーと共に、同志が用意してくれた船で、香川県庵治町の四国研修道場へ、瀬戸の海を走った。
そして、ここで行われた、夕焼け空に包まれた野外研修会で、四国の歌「我等の天地」が発表されたのだ。
なお、この夜、熊本でも、九州の歌「火の国の歌」が初披露されている。
日々、炎暑であった。その暑さにもまして、同志を護り励ますため、熱き闘魂を燃やした毎日であった。
四国研修道場で、私は、「東京の歌」の完成にも全力を注いだ。
◇
七月二十六日、船で小豆島を訪れたあと、再び岡山へ。そして翌二十七日の午後三時過ぎ、「ひかり24号」で名古屋に入った。
この日は「中部の日」。
嬉しき記念の幹部会で、中部の歌「この道の歌」が発表となった。
頬を紅潮させた中部の友が、頭を掻きながら言った。
原案で残ったのは「中部」と「この道」など、わずかな言葉だけでした、と。
私は、皆の労をねぎらいながら語った。
「『中部』をなくしたら大変だよ。私は中部に来られなくなってしまう。
『この道』もね、やはり『あの道』というわけにはいかないじゃないか」
大爆笑が広がった。
いかなる嵐があろうが、朗らかに、不撓不屈で戦い進むのだ。私と共に、師弟不二の「この道」を!
一緒に「この道の歌」を歌うなかで、わが同志の顔は輝き、師弟の心は一つにとけ合っていった。
◇
ただ中部に来て、実際に歌ってみると、歌詞を直したい個所が出てきた。
当初、「諸天舞う」とした最後の一節がそうだ。
仏典は明言している。
「必ず心の国きに仮って神の守り則ち強し」(御書一一八六ページ)
御聖訓には仰せである。
「教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき」(同一一八七ページ)
広宣流布を誓う、必死の祈りの一念は、仏天をも動かす。一切が諸天善神の働きとなる。これが、仏法の
真髄ではないか。
諸天をも叱咤し、厳命していける強い大確信の一念こそ、「絶対勝利の信心」に他ならない。
そこで、「諸天舞え」と直させていただき、七月二十八日、岐阜の東濃(とうのう)文化会館を訪問した折に、改めて大合唱したのである。
◇
「歌を作ったよ」──関西をはじめ、私からの連絡を受けた各地のリーダーたちは、"いったい、いつの間に"と驚嘆した。
波立たぬ水面下、先手先手を打ち、勝つための準備を進めていくことだ。
約二週間の師子奮迅の旅は最終盤を迎えていた。
直接、お会いした同志は二万数千人にもなった。家庭訪問も、個人指導も、行く先々で重ねた。
関西は立った。中国も、四国も、九州も立った。そして中部も立った──。
雄々しき歌声は、師弟の心を結び、電撃的に同志を鼓舞していった。
"西日本作戦"の第一波は大勝利であった。
◇
この人生
断じて負けるな
勝つための
創価の信心
決意も新たに
「次は東京だ! そして、東日本だ!」
四国で進めていた歌詞に曲がついて、東京の歌「ああ感激の同志あり」が完成したのは、七月二十八日、中部の地であった。この歌を引っ提げて、私は東京へ乗り込んだのだ。
東京の歌「ああ感激の同志あり」は八月一日、新・高等部歌「正義の走者」とともに発表された。
次いで六日には、東北の歌「青葉の誓い」が誕生。
この日、信濃町の創価女子会館に、健気な東北女子部の代表が来ていると聞き、私は、ほぼ完成していた歌に曲をつけながら、推敲を開始した。
そして、一番、二番、三番と仕上がるごとに、彼女たちに伝えていったのである。
さらに同日、山形県・米沢で行われていた「置賜(おきたま)ふるさと祭典」のために、電話で歌詞と曲が伝えられ、劇的に歌い上げられた。
この八月の前半には──神奈川に「ああ陽は昇る」、北陸に「ああ誓願の歌」、さらに、八月後半には──北海道に「ああ共戦の歌」、そして長野に「信濃の歌」を、私は贈った。
秋十月には──
「母の曲」(婦人部)
「凱歌の人生」(茨城)
「広布の旗」(埼玉)
「地涌の旗」(世田谷)
「雪山の道」(新潟)。
"創立の月"十一月は、
「誓いの友」(栃木)
「永遠の青春」(指導部)
「文化と薫れ」(山梨)
「歓喜の城光れ」(泉州)
「広布の鐘」(群馬)
「静岡健児の歌」(静岡)。
最終的に、この年、私が作った歌は、男女青年部や学生部、婦人部、壮年部の歌をはじめ、方面・県・区の愛唱歌、支部歌(練馬区の「北町広布」)等に至るまで、三十曲に及んだのである。
なお二〇〇六年には、新生九州の歌「大九州の友は晴ればれと」を贈った。
さらに、北海道の歌は、このほど、「三代城の歌」と改題し、一部加筆もして、新たな方面歌に生まれ変わった。
爽やかな秋の北海天地に、わが同志の意気軒昂なる歌声が轟いている。
◇
権力の
虚しき冠
朽ち果てぬ
民衆賞讃
王冠不滅と
昨年の十月、「世界詩歌協会」より、光栄にも私は「世界民衆詩人」の称号を拝受した。「桂冠詩人」「世界桂冠詩人」に続く栄誉である。
インドのチェンナイで行われた式典の席上、大詩人のスリニバス会長が、錚々(そうそう)たる七百人の来賓の前で語ってくださった。
「池田博士は『世界の民衆』に勇気と希望を贈り続けておられます。
博士の詩は、こう魂を揺さぶるのです。
『私たちは前進する!
着実に前進する!』と」
あまりにも有り難い、今は亡き博士の信頼と励ましにお応えして、私は世界の民衆の前進勝利の詩歌を作り、歌い続ける決心である。
◇
「私は戦闘に勝った。《ラ・マルセイエーズ》が、私とともに指揮した」
これは、フランス大革命の激動期に、一人の将軍が誇らしげに記した言葉だ。
もともとは一七九二年、無名の一将校が、戦いに臨む熱情を託して、一夜で作り上げた歌である。
大革命期の六年間で、約二千三百曲の歌が作られたといわれるが、なかでも、「ラ・マルセイエーズ」の歌の力は絶大であった。
「勝ち戦」の勢いを
わが創価の大行進にも、同じ方程式がある。
私はよく学会歌の指揮を執った。全国各地に、その黄金の思い出がある。
沖縄本部の落成式(昭和三十七年)での、「沖縄健児の歌」も忘れられない。
場外の友のため、炎天下、屋上で指揮した。
昭和四十四年の師走、病を押して訪れた和歌山では、同志の「武田節」の大合唱で舞いに舞った。皆が喜んでくれるならと、大鷲が翼を広げる如く!
創価の正義の妙音を響かせていくところ、陰険な悪党どもは震え上がる。邪悪な闇は打ち破られるのだ。 学会歌を朗らかに歌い進む時、師弟共戦の足音は勝利へ勝利へと高鳴る。
◇
戸田先生は言われた。
「どんどん新しい勢いのある歌が生まれるのは、学会発展の勝ち戦の瑞相だ」
不思議にも、新世紀、新時代を飾って、新しい歌が続々と誕生している。
神奈川の「勝利の虹」
新「創価班歌」
新「牙城会歌」
「農漁村部の歌」
「社会部の歌」
「青年教育者の歌」
「学術部の歌」
新「聖教新聞社歌」
真剣に作成に挑まれた友の祈りと奮闘を讃えたい。
特に激務のなか、作曲、編曲、そして合唱、録音等を陰で支え抜いてくれた、わが音楽隊など創価の偉大な楽雄たちに、私たちは最敬礼したいのだ。
二十世紀ベラルーシの国民詩人ヤンカ・クパーラは歌った。
「歌を創ること、
素晴らしい歌を。
その歌で
国のあらゆる人と
友情を結ぶ。
これこそ最高の宝。
我が胸に秘めしは
この願いのみ」
醜悪な策略が渦巻く時代にあって、わが学会は、常に清々しい歌声とともに勝ってきた。
いな、これからも永遠に威風堂々の歌声で、勝って、勝ちまくっていくのだ!
賑やかに
楽園の歌
うたいつつ
喜び勇んで
常勝かざれや
(随時、掲載いたします)
エマソンの言葉は『エマソン選集7』小泉一郎訳(日本教文社)。「ラ・マルセイエーズ」への賛辞は吉田進著『ラ・マルセイエーズ物語』(中央公論社)。クパーラは詩集「パブリンカ」(『全世界文学図書3 ニ十世紀文学』所収、フドージェストベンナヤ・リチェラトウーラ社)=ロシア語版。
随筆人間世紀の光 166 わが尊き同志に贈る歌 下〔完〕