2008年9月25日付 聖教新聞 あの日あの時 3 1 池田先生と東京北区

2008年9月25日付 聖教新聞
あの日あの時 3 1 池田先生と東京北区

「スタートダッシュ」で決まる

 トインビーと赤羽

赤羽台に現れたトインビー博士は、団地の一室の玄関で靴を脱いだ。
 長身を折り曲げるように、家具や押し入れ、トイレ、浴室まで丹念に見て回る。通訳を介して、住人に家賃や光熱費を聞く。「イエス、イエス」と大きくうなずき、要点をメモする。
 来日していた博士が突然「日本の団地を見てみたい」と言い出したのは、1967年(昭和42年)11月10日である。佐藤栄作首相と会見した帰り道だった。
 同行していた京都産業大学の学者は、はたと困った。この世界的な歴史家を、どこに連れて行けばいいのか。
 当時、集合住宅といえば、北区赤羽台のマンモス団地が有名だった。団地にお願いし、翌11日の訪問が決まったのである。
 5年後の72年(昭和47年)。博士はロンドンの自宅に池田名誉会長を迎えた。大都市への人口集中についても互いに意見を交えた。
 「日本で切実な問題であることを私は知っています」
 博士は赤羽台団地で1DKから3DKのタイプまで計5家庭を回っている。
 コンクリートの壁に隔てられても、人間的な交流を失ってはいけない。名誉会長と博士は都市の課題を論じ合っている。
 東京・北区。戦後、人口が急増した地域である。赤羽一帯も、かつては陸軍の施設が立ち並ぶ"軍都"だったが、巨大な団地に変貌している。
 この庶民の街に、いかにして崩れぬ民衆の連帯を築いていくか。名誉会長は人知れず心を砕いてきた。

 全東京の急所

 東京・水道橋の後楽園競輪場(現在の東京ドーム)。ふだんは競輪ファンで埋め尽くされる観客席を、腕まくりした青年が動き回っている。
 1958年(昭和33年)11月8日。翌日の創価学会本部総会に向け、急ピッチで準備が進められていた。
 陣頭指揮を執る池田総務がトラックに姿を現した。またたく間に青年が取りまく。北区女子部の責任者・藤川智恵子は、いくぶん肩をすぼめながら、隠れるように総務の後方に立った。
 鋭い叱咤が飛んできた。
 「しょぼしょぼしているような指導者ではいけない!」
 おそるおそる頭を上げる。藤川は義兄を亡くしたばかりだった。いつまでも悲しみに打ちひしがれている弱い心を見抜かれた。
     ◇
 11月25日。
 藤川は仕事を早々に片づけ、学会本部へ駆けつけた。翌日に北区の総ブロック大会を控えている。何としても総務に出席してもらいたい。
 あの厳しい視線が、まざまざと脳裏によみがえる。振り払うように懇願した。
 「先生、明日の会合に、ぜひ来てください!」
 じっと藤川の目を見つめた総務は、何ごとか考えを巡らす表情になった。
     ◇
 この日、総務は綴っている。
 「一日一日、暴風雨の学会。肚を決め、死を賭して、指揮をとる以外に道なし」(日記)
 戸田第2代会長の逝去から半年。学会を取り巻く諸情勢は、日を追うごとに険しさを増していた。政界、宗教界、マスコミ......。ありとあらゆる勢力が、鵜の目鷹の目で学会の分裂を狙っていた。
 戸田会長には、唯一の心残りがあったとされる。それは56年(昭和31年)の参院選で東京が敗退したことである。"まさかを実現"して勝利した大阪と明暗を分けた。
 東京を強くしなければならない。すでに総ブロック制が敷かれ、地域一丸の前進が図られている。あとは「要」に、信心の根本を打ち込むことだ。
 「大阪の戦い」では周辺部を徹底的に回り、大阪を囲みあげるように庶民のスクラムをつくりあげた。
 北区。23区の北部に位置し、都心から距離はあるが、隣接区は多い。鉄道網も発達している。人口の急増も見込まれている。
 ここが急所になる。

 「北区」が誕生した

 翌11月26日。滝野川の会場の玄関口に、快活な声が響いた。
 こんばんは!
 藤川が跳ね上がった。総務だ! 来てくれたんだ!
 北区への初訪問である。
 イス席を埋めた壮年、婦人が総立ちになった。床のきしむ音が近づいてくる。
 廊下にあふれ返った青年たちが一斉に歓声を上げた。
 藤川は胸を撫で下ろした。
 総ブロック大会とはいうものの、まともに北区の会員だけで集ったことなどなかった。まだまだタテ線の色が濃い時代。ブロックの連絡網も、ほとんど整備されてない。学会員とおぽしき家を訪ね歩き、直接、参加を呼びかけて会場を埋めたのである。
 だが隣を見ても、お互い知らない顔ばかりである。一体感とは、ほど遠かった。
 東京の北の砦に、いかなる指針を残すか。総務は熟慮した末、御書を引いて鋭く指導した。
 「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」(1262ページ)
 一切の勝負は「強い祈り」で決まる。そのうえで「団結」だ。北区が「鉄壁の砦」になるか。「砂上の楼閣」で終わるか。すべては異体同心の団結にかかっている。
 総務が拳を握り、語気を強めるたびに激しい喝采が起きた。すさまじい気迫である。最前列に座った子どもさえ、跳び上がって手を叩いた。
 この日、池田総務のもとで、はじめて「北区」が誕生した。

 香峯子夫人と合唱祭

 北区の婦人部長・橋元和子が、秘めた決意を名誉会長に伝えたのは、1977年(昭和52年)も押しつまった12月である。
 信濃町で行われた婦人部との懇談会。橋元は婦人部長になって5カ月である。秋から、区の愛唱歌「北誓歌(ほくせいか)」の合唱運動が巻き起こっていた。お願いするのは今しかない。
 「先生、合唱大会をやります!」
 響くような即答が返ってきた。
 「そうだ! 歌は折伏と同じだ。人の心に勇気と希望を贈る。"歌声運動"を起こして行こうじゃないか」
 第1次宗門事件が水面下で、くすぶり始めていた。本陣・東京の、なかんずく婦人部さえ動じなければ、学会は崩れない。
 「3月にやろう。戦いは始まったら駆け足だよ。全国に先駆けて北区からはじめよう」
 すべてはスタートダッシュで決まる。年明けの78年1月8日。聖教新聞の1面に予告記事が躍った。
 「3月に東京・北区が合唱大会」
 さっそく名誉会長が合唱団に名前をつけてくれた。
 「3月だから『弥生』がいいね」
 いよいよ(弥)、いきいき(生)と! 「弥生合唱団」が誕生した。
     ◇
 3月12日の合唱大会。
 会場は満員の聴衆で膨れあがっていた。当時の北区内では収容できる会場がなく、隣接する板橋区で行われた。いつも苦楽を共にしてくれるのが板橋だ。
 名誉会長は出席できなかったが、最前列に香峯子夫人の姿があった。
 フィナーレの「北誓歌」。みな総立ちになって肩を組んだ。
歓喜の渦を響かせて
 誇りも高き北家族......
 香峯子夫人がマイクを取った。
 「みなさんは、学会の中で、最高の人生、本当に生きがいのある人生を歩んでこられた。そう実感できる合唱大会でした」
 この日を目指してきた友の目に涙が浮かんだ。
 「これからの10年、20年を有意義に生きるためには学会しかない。そう心に決めて、今日からまた一緒に頑張りましょう」
 この日の合唱大会を香峯子夫人は、いつまでも忘れず、心にとどめた。

 ここは力の出る区だ

 それから14年後のことである。
 1992年(平成4年)1月17日夕刻。名誉会長夫妻は、田端の北文化会館を初めて訪れた。
 1階のホールをゆっくり歩きながら、展示物を丹念に見て回る。7段の雛人形が飾られていた。
 「いいお雛様だね。立派だな。もったいないくらいだね」
 3階へ。そこにも雛人形が並んでいた。じつと見つめる名誉会長に、香峯子夫人が言葉を添えた。
 「北区は『弥生』なんですよ。有名な合唱団です。それで、お雛様は弥生につながるんです」
 大きく相づちを打った名誉会長。居合わせた幹部に強い口調で伝えた。
 「北区は東京を見下ろしていくんだ! いい区だ。ここは力の出る区だ!」
 名誉会長の初訪問から、今年の秋で50年になる。

あの日あの時 3 1 池田先生と東京北区〔完〕


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