2008年9月27日付 聖教新聞 あの日あの時 3-2 池田先生と大阪 1(守口・門真・鶴見・旭)

2008年9月27日付 聖教新聞
あの日あの時 3-2 池田先生と大阪 1(守口・門真・鶴見・旭)

「大きく勝て」「勇んで戦え」

 松下幸之助の関心

 ──白木義一郎......か。そや、たしかプロ野球選手やったな。元気に選挙やっとる。
 "経営の神様"松下幸之助が大阪で白木のポスターに目を留めた。松下電器産業の創業者。世の動きに敏感である。
 1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員選挙
 白木の選挙カーの周りに人だかりができていた。一緒になって駆け出す支援者がいる。子どもつれの若い母親、作業着姿の青年が、沿道で力の限り手を振っている。
 大阪の門真町(現・門真市)は松下グループ企業城下町。初めて男る光景だった。
     ◇
 新屋純之輔は松下電器店員養成所の1期生である。学会員の彼には忘れられない思い出がある。
 58年(昭和33年)、テレビ事業部で部品工場長をしていた。
 秋のレクリエーションで参加したマツタケ狩り。酒宴もたけなわのころ、営業部長が松下の面前で突然、新屋を指さした。「この人、南無妙法蓮華経ですわ」
 新屋は、むっとした。
 言い返そうとしたが、その前に、松下が営業部長を厳しい表情で、たしなめた。
 「君は何か宗教を持ってるんか? 持ってない君に、そんなこと言う資格なんてないんやで」
 営業部長はシュンと下を向いてしまった。
 松下は新屋に向き直り、興味深そうな顔になった。
 「創価学会は今、日本で一番発展してる団体やないか。なぜそうなっているのか、しつかり勉強してワシに教えてくれ」

 守口のドライバー

 1956年(昭和31年)5月、大阪支部守口地区の刀根修二郎は「大阪の戦い」に勇んで飛び込んでいた。
 勤務先ではドライバーをしていたので運転に自信がある。車を借りて青年部の池田室長を乗せ、走り回った。
 京阪沿線には木造建ての住宅が密集していた。淀川沿いには湿地帯。駅から少し離れるだけで蓮根畑が広がっている。
 室長は1日数十軒の強行軍もざらだった。疲労のためか、顔色がすぐれない。
 移動の車中くらい休んでもらおう。刀根は、できるかぎり丁寧な運転を心がけた。
 後部座席が静かになった。よかった。室長は休まれたんかな。
 バックミラーをのぞく。室長は流れる車窓を見つめ、小声で題目を唱えている。シートにもたれることもない。ピンと背筋を伸ばしたままだった。
 次の拠点へ。そのまた次の拠点へ。その姿勢は全く崩れない。まるで地面に題目を染みこませているようだ。
 たくさんの東京の幹部を乗せてきたが、こんな人は初めてや。本物の戦いとは、ここまで執念をもってやるものなのか!
 ある日、予定を早く消化し、思わぬ時間ができた。刀根が思い切って申し出た。「室長、私の家に来てください」
 何度、折伏しても断られた近所の夫婦二組に会ってもらいたい。
 小さな部屋で、ちゃぶ台を囲んだ。「この仏法は、すごい力があります。一緒に頑張りませんか」
 折り目正しい室長の大確信に押されて、4人が同時にうなずいた。
     ◇
 5月15日の早朝、刀根の家に刑事が来た。
 以前に、泥酔した男が学会員宅に乱入し、玄関で転んでケガをした。明らかな事故にもかかわらず、刀根に傷害容疑がかかった。それも4カ月前の話の蒸し返しである。
 学会を暴力宗教に仕立て上げようとする魂胆が見え透いていた。
 取調室。刀根は室長の姿を思い出した。正しいことは正しい。おれも執念や。何も恐れなかった。
 一方、妻のなつは動揺した。信心して夫が逮捕されるなんて。夫の勤務先に何と伝えよう。焦りばかりが募る。
 落ち着こうとして外を歩いた。帰宅すると玄関の戸口にメモがはさまれていた。
 「戸田先生が会ってくださる。すぐ中之島の公会堂に向かうように」
 不安を振り払いたい一心で、中之島に向かった。駅を降りると小走りになった。息を切らせて公会堂に到着した。
 控室に通されると、戸田会長が待っていた。思わず涙がこぼれる。
 「あなた方ご夫婦のことは、御本尊にご祈念しました。絶対に退転してはなりませんぞ」
 勝つためには、祈りきることだ。厳愛が心を打った。腹が決まると、恐れる心が瞬時に消え去った。
 10日後、無罪の刀根は釈放された。

 鶴見区の「喫茶ヒロ」

 1981年(昭和56年)3月17日。鶴見区の「喫茶ヒロ」の外まで楽しげな声が聞こえた。
 来阪していた名誉会長が懇談中である。「手品を見せてあげるよ」。少し緊張気味の青年たちを和ませる。鮮やかなコインのマジックに店内は湧いた。
 そんな様子を見ていた一人の壮年が立ち上がる。「私たちは、どんな荒野も、先生とともに生涯を進みます。決意はできております」
 「大阪の戦い」も経験した古参である。「お願いがあります。広宣流布には新しい人材が必要です。若い人に光を当ててください」
 名誉会長が関西のリーダーたちを振り返った。「今日は、気持ちがいいね」
 後日、伝言が届く。「草創から頑張ってくださった方々を寂しがらせるようなことだけは、絶対にいたしません。そうお伝えください」
 老いも若きも奮起した。関西の弟子の戦いに世代の壁など関係ない。総立ちである。

 門真が師のもとへ

 1980年(昭和55年)3月9日、新大阪駅氷雨が降り続いていた。
 「何のこれしき」。プラットホームの一団は明るく、屈託がない。
 前年の7月に門真圏が発足。しかし、どうにも意気が上がらない。12月には、ボウリング場を改装した関西戸田記念講堂を満杯にして3200人の総会を開いた。
 第3代の会長を辞任した名誉会長。なんで池田先生が会合で指導したらあかんのや。聖教新聞に載ったらあかんのや。
 「だったら、僕らのほうから、先生がいらっしゃるところに行こうやないか」
 新幹線の6両を貸し切り、門真の同志600人余りが大挙して上京した。
 東京・信濃町の広宣会館。午後1時半から勤行会が始まった。演壇脇には東京の幹部が座っている。
 淡々と式次第が進む。体験発表が終わり合唱が始まろうとした。その時である。右手前方の扉が勢いよく開いた。
 名誉会長だった。
 「そこまで来たら、門真の皆さんがいらっしゃると聞いたので、やってまいりました」
 ピアノで3曲を演奏。全員で万歳を叫んだ。たとえスピーチができなくても、名誉会長の心がストレートに届く出会いだった。
 歌とともに前進!
 黒田節を舞って指揮を執った「大阪の戦い」と同じだった。

 旭区の戦う旗印

 1983年(昭和58年)3月12日。大阪旭会館を訪れていた池田香峯子夫人の足が止まった。
 館内に飾られた模造紙。ところどころ、破けているが、墨の文字に烈々たる勢いがある。
 「大勝」の二文字。
 立ち止まった香峯子夫人も懐かしそうだった。
 「若いころの字を見たら、さぞ恥ずかしがるでしょうね」
 それは56年(昭和31年)5月、あの刀根が逮捕された日に池田室長がしたためた揮毫である。
 ──逮捕に驚いた青木吉市郎(旭区)。どうしていいのか分からず、関西本部へ走り込んだ。
 「権力との闘争は、紛動されたら負けだ」。室長の気迫に臆病風が吹き飛んだ。
 室長は、その場で大きな模造紙に一気に「大勝」と書き上げた──。
 青木は、ずっと考えていた。
 歴史的な文字を自分が持っていていいものだろうか。関西の宝だ。「やはり、これは先生にお返ししよう」
 その日の夜、来阪中の名誉会長がいる関西文化会館に持参した。
 翌朝、関西の幹部から自宅に電話がかかってきた。
 「先生、喜ばれてな。また新しく書いてくださったんや。今、墨を乾かしてるととろやで」
 そんなつもりではなかったのに。申し訳ない......。
 夕刻、関西文化会館へ。
 あっ! 新しい紙に堂々たる筆致。「大勝」の二文字が目に飛び込んできた。
 そのニュースは、またたくまに旭区内を駆けめぐった。ほどなく城下重子の耳にも届く。自分の手元にも、あの戦いでの揮宅があった。関西本部に持参すると、これも新しく筆をふるってくれた。
 「勇戦」である。
 勇んで戦え!
 大きく勝て!
 名誉会長の心は、永遠に変わらない。

あの日あの時 3-2 池田先生と大阪 1(守口・門真・鶴見・旭)〔完〕


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