2008年11月24日付 聖教新聞  11,18記念代表協議会での名誉会長のスピーチ 中-1

2008年11月24日付 聖教新聞
11,18記念代表協議会での名誉会長のスピーチ 中-1

異体同心で幸福の大道を
戦いはこれからだ!
不惜身命の闘士たれ
近代日本の医療福祉の祖「忍耐と勇気が成否を決める」

 一、戸田先生は"励ましの指導者"であった。
 経済苦、病気、不和......現実のありとあらゆる苦悩に挑む友を、生命を揺さぶるように激励していかれた。
 先生は言われた。
 「人生、行き詰まった時が勝負だぞ!
 その時、もう駄目だと絶望し、投げやりになってしまうのか。まだまだ、これからだと、不撓不屈で立ち上がるのか。
 この一念の分かれ目が勝負だ!」
 「君の想像を超えた、実に見事な解決ができるだろう。それには題目をあげきることだ。いかなることでも、変毒為薬できないわけがないのです」
 そして、師の厳愛に立ち上がった弟子は、勝利の実証を示していったのである。
 わが人生を、嘘偽りなく歩む人。御本尊に照らして、わが信ずる「本当の道」を歩み抜く人。その人が勝利者である。「心こそ大切」(御書1192ページ)なのだ。
 立場や役職に左右され、"自分だけが偉い"などと思い込んでしまえば、大きな間違いを犯すことになる。
 仏法上、「皆が偉い」のである。「皆が大切」であり、皆が「かけがえのない役割」を持っている。
 皆、同じ学会員であり、「異体同心」で進んでいくのだ。
 この点をはっきりしなかったら、学会の清浄な世界は汚れ、大変なことになってしまう。

 「生老病死」の解決を目指して
 一、さらに、戸田先生は力説なされた。
 「政治の次元だけでも、経済の次元だけでも、科学の次元だけでも、本当の幸福は築けない。
 誰もが避けることのできない、生老病死という根本の問題を直視して、解決している真の宗教を、根底にせねばならぬ」
 「生老病死」の打開──。人類は、そのための哲理を、真剣に求めている。
 世界各国、各地で、創価人間主義に深く共鳴する、新しい指導者も躍り出ている。
 日蓮大聖人は、「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」(御書1023ページ)と仰せになられた。
 私たちが声も高らかに「常楽我浄」の法理を語りゆくことを、時代は渇仰しているといって過言ではない。

 偉大なる
  師弟誓願
     創立日

 言論の勇者たれ
 一、本日は、"創価の薬王菩薩"たる、ドクター部と白樺の代表も出席されている。いつも、本当にご苦労さまです(大拍手)。
 私たちの実践の魂である「不惜身命」。それは、法華経に登場する薬王菩薩が発した言葉である。
 不惜身命──これこそ、大聖人正統の誉れの学会精神である。
 また、きょうは創価の言論戦を担う代表も参加してくれている。
 法華経に説かれる菩薩の中に、「大楽説(だいぎょうせつ)菩薩」がいる。薬王菩薩とともに「不惜身命」を誓っている。
 「大楽説」とは、"偉大なる弁説の力をそなえた"との意味であり、言論の勇者といってよい存在である。
 重要な場面で、皆の疑問を察して、師に向かって聞いを発する役割も担っている。
 どうか一人一人が「不惜身命の闘士」として、今こそ勇敢に立ち上がっていただきたい。

 「菩薩行には魔が起こる」
 一、日蓮大聖人は、文永8年(1271年)の11月、法華経に説かれる通りの流罪の法難を受け、佐渡の地にあられた。
 この月、大聖人は、「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(御書955ページ)と仰せである。
 そして、このまさに600年後、佐渡を擁する新潟で生誕されたのが、初代会長の牧口先生である。
 1942年(昭和17年)11月、創価教育学会の総会で、牧口先生は言われた。
 「信ずるだけでも御願いをすれば御利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。
 自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義(利己主義)の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである」
 「自分の一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起らない。之に反して菩薩行という大善生活をやれば必ず魔が起る。起ることを以って行者と知るべきである」
 日蓮仏法の真髄をそのまま、寸分違わず実践されたのが、牧口先生であった。
 牧口先生、戸田先生のお二人は投獄され、牧口先生は獄死された。私もまた不当逮捕された。
 師のために戦った、創価の歴史である。
 学会から、この崇高なる「師弟」がなくなったら、もはや学会ではない。あまりにも明らかな道理だ。
 「本物」の信心に立てば、わかることである。
 「本物」の人間かどうかは、心で決まる。頭のよしあしなどではない。
 うわべをつくろい、策を弄する人間、増上慢の人間が、「師弟」を破壊する。広布の団結を破壊する。それこそ、大聖人が厳しく戒められた「城者として城を破る」(御書1337ページ)者にほかならない。

 "悪鬼"をも広布の味方に
 一、1944年11月18日、朝6時過ぎ。創価の父は「不惜身命」の大精神を貫き、巣鴨の東京拘置所で崇高な生涯を閉じられた。
 直弟子の戸田先生は、身を焼いて供養した薬王菩薩になぞらえて、「(牧口)先生の死こそ、薬王菩薩の供養でなくて、なんの供養でありましょう」と叫ばれている。
 「日本は、この正義の大偉人を殺した!
 私は必ず仇を討つ!一歩も退かず、大折伏をして、牧口先生の仇を討っていくのだ」
 ──これが戸田先生の誓願であられた。そしてまた、不二の弟子たる私の誓願である。
 戸田先生を守って、私の右に出る者はいなかった。先生のそばには、信用できない者もいた。私に対して「信じられるのは、お前だけだ」と言われる時もあった。
 私は、師である戸田先生をだれよりも尊敬し、社会から尊敬される存在へと宣揚していった。約束したことは絶対に成し遂げるのが、私の信条である。
 法華経には「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」とある。たとえ悪鬼、魔民であろうとも、広宣流布の味方にして、生かしきっていくのが創価の指導者だ。私はこの決心で半世紀以上、闘ってきた。皆さんは、心を魔に食い破られてはならない。

 師の後を継いで
 一、私は、戸田先生の後を継いだ者である。この人生のすべてを、創価学会に尽くしてきた。
 広宣流布という、世界一尊い仕事の長として、この人生を歩んできた。かけがえのない同志とともに、汗水流して働いてきた。
 いわば"師弟の真髄"を生きてきた人間であると自負している。
 とともに、数えきれないほどの世界の指導者たちと、真剣に対話を重ねてもきた。人間と社会の実相を知っているつもりである。
 インチキな人間なのか、格好だけなのか。慈愛の心か、軽蔑の心か。一つの言葉、一つの振る舞いから、その人のことがわかる。透徹した信心の眼は、骨の髄まで、腹の底の底まで見抜くことができるものだ。
 また、そうでなければ、これだけの堂々たる学会をつくることはできなかっただろう。
 真実の師弟が築いた学会である。この事実を、責任ある広布のリーダーは軽んじてはならない。これは決して自讃して言っているのではない。将来の学会を護る人々のために、真実を、正直に言っておきたいのである。
 人間の世界は恐ろしいものだ。戸田先生が苦境に陥り、学会の理事長を辞めた時にも、信じられる人間は、あまりにも少なかった。一人だけでもいい。私は、"本当の弟子"といえる人間を育てておきたいのである。

 「真実の学会」は「わが心の中」に
 一、私は、ほかのだれよりも強く、広布の同志を守ろうとした。
 それゆえに、御聖訓の通り、だれよりも多く迫害を受けてきた、。
 いわれなき非難中傷を浴びせられ続ける苦しみは、実際に体験した者でなければ、わからないものかもしれない。
 なかには、大幹部でありながら、そうした状況に慣れてしまい、私が矢面に立つことが当然だと思い始める者も出た。
 同志への慈愛も、魅力もなく、ただ威張るだけで自分のことしか考えない卑劣な輩もいた。そうした忘恩の人間が皆、惨めな人生をたどっていることは、皆様がよくご存じの通りである。
 しかし、今から思えば、すべて意味のあることであった。そうした動きが生じることによって、広宣流布の進むべき道が、いよいよはっきりと見えるようになったからだ。
 ともあれ「真実の創価学会」は、師弟に生き抜いた「わが心の中」にある。
 師弟の「本流」を、諸君には知っていただきたい。そして、ますます勢いよく、さらに素晴らしき学会を、ともどもにつくっていきたい。
 薬王菩薩が、自身の生命を燃焼させた光明は、1200年にわたって輝き続け、世界を照らしたと説かれている。
 学会は、創立78周年を勝利で迎えた。
 創価の師弟の、不惜身命の魂が継承されていく限り、学会は永遠に光り輝いていくことができると申し上げておきたい(大拍手)。

11,18記念代表協議会での名誉会長のスピーチ 中-2に続く



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